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障害を抱えて、どのように生きたらいいのでしょうか?

私は生まれて間もなく、病をきっかけに聴覚障害となり、両耳が聞こえません。聾学校に通い、手話で何とか人とコミュニケーションも取れるようになったのですが、なぜこんな運命を背負わなければならないのかと思うと、時々やり切れない想いになり、何事も手につかず、周りに当たり散らしてしまうことがあります。

29歳男性・自営

「こうだったから、こうなってしまった人生」から、「こうだったのに、こうなれた人生」、そして「こうだったからこそ、こうなれた人生」に向けて、歩んでゆく

高橋佳子先生
『いま一番解決したいこと』より一部抜粋・要約

あなたが、聴覚障害という運命を背負って今日まで生きてこられる間には、人知れぬ様々な苦難があったことと思います。

自分の力ではどうにもならない人生の定めを、人は「運命」、そして「宿命」とも呼びます。あなたにとって「両耳が聞こえない」ことは、まさに変えることのできない運命と感じられることでしょう。
確かに、あなたが背負われた聴覚の障害は、変えることのできない身体的条件と言えます。しかし、あなたにまずお伝えしたいのは、人は運命に支配されるだけの存在ではないということです。

どのような条件を背負おうとも、それをどう受けとめ、どう生きるかは、1人ひとりの自由意志に委ねられています。そしてそこに私たちが何よりも大切にしなければならない、人間の尊厳があると思うのです。


あなたと同じように、幼い頃から聴覚障害を背負って歩んでこられた、現在50歳のある男性は、かつては「聴覚障害でさえなければ……」と、自らの運命を呪うような想いで生きてこられたと言います。ところが、自らの人生の成り立ちを振り返り、自分がどのような運命の中にあったのかを見つめてゆく中で「耳が不自由だから人生が不自由になったのではなく、『自分は不自由だ』と思う心自体が、不自由だったのだ」と気づかれました。


そして、今は聴覚障害を背負ったからこそ、同じ痛みを抱えた方々に対して、自分の体験を語り、励ますことを喜びとして人生を歩まれています。

与えられた運命をどのように受けとめて生きることができるのか――。私はそこに魂の成長に応じて、3つの段階があると考えています。まず第1段階は、運命に支配されて「こうだったから、こうなってしまった人生」を送る段階。第2段階は、運命を跳ね返して生きる「こうだったのに、こうなれた人生」の段階。そして3段階目は、運命を引き受け、その運命だからこそ示すことのできる生き方「こうだったからこそ、こうなれた人生」の段階です。

この方も、自らの運命を超えて、この3段階目の「こうだったからこそ、こうなれた人生」を歩み始めていらっしゃるのです。


もちろん、自らに降りかかった理不尽とも思える運命を受納することは、容易なことではありません。また、他者が受納を安易に強要することもあってはならないことだと思います。しかし、人間の魂の内には、真珠貝が身の内に異物を長い間抱き続けて、やがて輝きを放つ美しい真珠をつくり出すように、自らに抱えた痛みを光に変えてゆくことのできる強い力が宿されていることは信じていただきたいのです。 人生を見つめるなら、1人の内にも無数の条件が抱かれていることがわかります。生まれた時代や場所や両親、皮膚の色、容姿、能力の有無……自分に与えられた無数とも言えるその条件のすべてを、容易に受けとめられる人は稀でしょう。傍からは恵まれた条件としか思えなくても、本人にとっては、どうしてもその条件が受けとめ難く、苦しむことも少なくはありません。逆に、他人からは、理不尽としか思えない条件を背負いながらも、その運命を従容(しょうよう)と受けとめて、見事にその人にしか咲かすことのできない可能性の花を開いてゆく方もあります。


本当に「不自由と受けとめてしまう自分の心が不自由」なのであり、その心の呪縛を解かない限り、どのように恵まれた条件であっても自由は得られないということではないでしょうか。


そして、忘れてはならないことは、たとえ身体がどれほど不自由でも、また五感を閉ざされ、肉体を牢獄に縛られていたとしても、心は自在であり宇宙を駆け巡ることもできるということです。


どんなに不自由な条件を与えられても、誰もが「真の自由」を生きることができる――。そのことを本当に得心したとき、人は初めて、運命を変える力を手にすることができるのです。

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