#
# #

次々に亡くなってゆく患者さんを前に、医者は一体どうしたらいいのでしょうか?

医療の現場にいて常々思うことですが、どんなに手を尽くしても、命が助からない患者さんを前にすると、「いくら頑張ったって、所詮どうにもならないじゃないか」とニヒリズムに襲われ、その自分をどうすることもできません。最近、病院でも後輩の面倒を見たり、責任ある立場に就くようになって、以前より一層重い気分が毎日のように続いています。周囲の医療者も皆疲れ切っているように見えます。どうしたらこうした状態から脱け出すことができるのでしょうか?

48歳男性・医師

医者である前に、1人の人間として患者さんの本心に触れるとき、「治す」ことはできなくても、「癒やす」ことはできる

高橋佳子先生
『いま一番解決したいこと』より一部抜粋・要約

一生懸命尽くしても、結局亡くなってしまう……。「いくら頑張ったって、所詮どうにもならないじゃないか」――あなたのそのやり場のない想いの奥に、もう1つ別の想いが横たわっているように私には感じられます。「何とか、助けて差し上げたい」「少しでも命をながらえさせてあげたい」という切実な願い――。今あなたが感じているニヒリズムの想いとは、そうした願いの裏返しとして生まれている虚無感であり、絶望感なのではないでしょうか。
「命が失われてゆくのは当然」という割り切った態度であるなら、きっとあなたのような苦しみにも襲われないことでしょう。


そうした想いは、実は医療を志し、誠実にその責任を果たそうとする医療者の方ならば誰もが共通して抱く疑問であり、ずっと突きつけられる問いなのではないでしょうか。それだけ重要なテーマだということです。ならば、その解答をぜひ真剣に求めていただきたいと思うのです。 そのために、どうしても直視しなければならない現実は、「死なない人間はいない」という事実だと思います。人の命には限りがあるという峻厳な現実です。そのことは、誰もが頭では十分に理解しています。しかし、心ではなかなかその現実を受け入れることができません。
しかし、たとえどれほどの技術の進歩があっても、その事実を覆すことはできません。その現実に目を開いたなら、その限りある時間は、その人が何かを果たすために与えられている時間であることがはっきりします。最期の瞬間まで、その「限りある命の時間にできることがある」ということを忘れないでいただきたいのです。


もしあなたが医師として、否、1人の人間として、患者さんの死期が迫っていることがわかる立場におありになるならば、その方が最期の命の時間を大切に生き切るための「縁(えん)」としてはたらくことができるのではないでしょうか。患者さんが「生まれてきて本当によかった」と心からそう思って、人生の終わりの時を迎えることができるように、誠心誠意、「この方が人間としての仕事をまっとうできますように――」と、祈るような想いで関わることもできるはずです。

病を「治す」ことはできなくとも、患者さんの心を「癒やす」ことはできる――。その気持ちで患者さんにまなざしを注ぎ、手を握りしめ、語りかけ、治療を施してゆく――。あなたのその願いが、患者さんの心に映る日が来ることを信じて、関わって差し上げてはいかがでしょうか。


大切なことは、医者と患者という立場で出会っていても、「癒やす側」と「癒やされる側」という単純な分け方はできないということ。そしてすべての根底には、1人の人間としての出会いが横たわっているということです。医者である前に、同じく死すべき存在である「1人の人間として」のまなざしに立ち還ってゆくとき、あなたの受けとめ方も関わり方も変わってゆくのではないでしょうか。

もちろん、同時に、医療の技術も磨き続け、より多くの方を助けて差し上げられるよう、努力を重ねられることはお願いしたいと思います。
人は死すべき存在だからこそ、生命の尊さを知ることができます。手を尽くしても助けられなかったその後悔を願いの光に変えて、何かをするために与えられている人間の命の時間を守って差し上げられるお医者様になっていただけますよう、心から祈っています。

同じテーマの記事をみる
医療