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このまま看護師を続けていくか、迷いが生じています

都内の大学病院で、看護師として終末期医療に携わっています。もう治ることはない患者さんと毎日接するのは、精神的にもつらいです。夜勤もあって体力的にも大変です。看護師の道を選んだものの、このままこの仕事をずっと続けていくのか、そもそもこの仕事でよかったのかどうか、迷っています。こんなとき、どう考えたらいいのでしょうか?

26歳女性・看護師

「忘れられない感動」「強い後悔」「どうしても捨てられない願い」「適当には見過ごせない強いこだわり」などが、本当にやりたい仕事の手がかりになりました

江川恵子さん
トータルライフ訪問看護ステーション雷門所長
53歳 東京都

2012年12月、東京都台東区に「トータルライフ訪問看護ステーション雷門」が設立され、私はそこで所長として日々、患者さんと関わっています。
また、地域の住民や専門職の方々との交流の場として、「認知症予防カフェ」も開催し、大変ながらも願いの仕事に就いているという充実感を持って働いています。

しかし、かつての私は、大学進学を願ってもそれが叶わないなど、未来に対して悲観的な想いばかりでした。
そんな私が、「魂の学」を実践することで、「自分ができることを本当に尽くさなければ最善の道を歩むことはできない」と前に進むことができ、本当に果たしたいことも見つかりました。その経験が、何かヒントになれば幸いです。


私は、長崎の五島列島の近くにある池島という九州最後の炭鉱があった島で生まれました。そして、私が4歳のとき、炭鉱会社の職員だった父が、突然脳卒中で倒れ、亡くなってしまったのです。それは、厳しい生活の始まりでした。一家の大黒柱を失い、工場の働き手となった母。職種によってヒエラルキーがある島で、私たち家族は、職員が住む「上」の住宅から、坑外で働く人たちの「下」の共同住宅へと移住しなければなりませんでした。

大学に行きたかったものの家にはお金がなく、すぐに就職できる商業高校に進学。いつしか私の心に刻まれた想いは、「自分にはどうにもならないことがある」というものでした。そして、何か問題が起こったとき、「もう難しいかもしれない」と感じ、現実を「仕方ない」と受けとめるような自分になっていました。


そんな私でしたが、そこから抜け出すような歩みを始めたのです。商業高校でコンピューターを学んでいた私は、「もっと血の通った仕事がしたい」と思うようになり、看護の道を選ぶことに――。高校卒業後、病院で働きながら学べる看護専門学校に入学したんです。まるで、何かに導かれるような自然な成り行きでした。

看護の道を選択した理由の1つに、実は小学校時代のある体験がありました。それは、当時の母子家庭には、役場を通じて日用品の配給があり、その中にナイチンゲールの本が入っていたんです。

クリミア戦争で傷ついた兵士たちを看護するナイチンゲールの姿――。ある箇所まで読み進めたとき、まるでその場にいたかのように、その様子がありありと眼前に広がりました。それはあまりに鮮烈で、生々しく、とても他人事とは思えませんでした。

2017年、ある集いの折、その体験をすっかり忘れていた私に、高橋先生が克明にお話しになり、私は大変驚きました。


「決して忘れられない感動を体験した」「強い後悔が湧き上がった」「どうしても捨てられない願いがある」「適当には見過ごせない強いこだわりがある」「自分の意図とは別に人生が開かれていく」――。高橋先生は、このような感覚があるならば、そこには魂からやってくるヴィジョンが隠れていることがあると説かれています。

私の場合、小学生の頃にナイチンゲールの本と出会い、看護師の道を選ぶまでには、数年の時間が必要でした。そして、看護師という道を選んでも、それが本当に自分の願いの仕事だと確信するには、さらに長い年月が必要でした。

看護専門学校を卒業し、名古屋の大病院に勤務、懸命に仕事をした私は、もう自分は「できる看護師」だと思い込んでいたんです。しかし、「魂の学」を基とした医療実践のクリニックに就職すると、自分の至らなさを嫌というほど感じました。その後、「魂の学」の研鑽と実践によって、私は「できる・できない」を超え、ようやく「本当に役に立てる看護師になりたい」という願いにたどり着くことができたのです。


長い年月をかけ、数えきれない出来事の中で、私は心の深奥に息づく願いに気づき、その声を聴き始めました。
今、日本は多くの高齢者が絆を失って、不安や孤独に生きることを余儀なくされています。それこそ、私にとっての「21世紀のクリミア」――。1人の看護師として、内なる声を聴きながら、その現実と向き合い、闘ってゆきたいと思っています。

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