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【日々の疑問】かつて人を傷つけてしまったことが忘れられず、罪悪感に苛まれています

もう20数年も前のことになりますが、学生時代、私と友人と私の妻の3人は大の仲良しで、いつも一緒に食事をしたり、夜を徹して人生を語り合うようなサークル仲間でした。けれども私は、その友人を裏切るような形で妻と交際を始め、結婚することになりました。友人は一言も告げずに私たちの前から姿を消し、その後音信不通になってしまいました。つい最近、人づてに、まだ独り身らしいと聞きました。それからというもの、友人のことが気になって仕方がありません。自分が友人を傷つけ、その人生を狂わせてしまったのかもしれないと思うと、罪の意識に苛(さいな)まれ、胸が締めつけられて苦しいのです。

49歳男性・会社員

つらい思い出に向かい合おうとし始めたこと自体が新たな「時」の始まり

高橋佳子先生
『いま一番解決したいこと』より一部抜粋・要約

あなたはきっと心優しい方なのですね。偶然のようにして知らされた友人の近況。その様子を知ってから後悔と心痛が消えずに続いている。1人の友人の人生を狂わせてしまったかもしれない。謝ることも、償うこともできない罪ではないかと思い悩まれている。「その時はそうするしかなかった。仕方がなかった」と、いくら思い込ませようとしても、後から後から自責の念が湧いてきて、そんな自分を自分でもどうすることもできない……。

あなたはこの20数年の間、そんな痛みを心の片隅にずっと抱えてこられたのでしょう。忘れたように振る舞っていても、心にはどうすることもできない「しこり」が疼(うず)いていたに違いありません。

人生に重くのしかかる罪の意識――。今あなたは、心の中で触れることもためらわれたその出来事に正面から向き合おうとされています。そのつらい思い出を受けとめようとし始めています。そのこと自体が、あなたにとって大切な「時」、新たな「時」の始まりなのではないでしょうか。そのことを、まず心に置いていただきたいのです。


私たちが生きている世界は、思うにままならないものです。1人が勝者になれば、誰かが敗者になる。1人が富を得て幸せを手にすれば、誰かが財産を失い途方に暮れる。意志を持って行動してもその通りに事が運ぶとは限らない。自分の意志とは関わりなどないかのように事が起こり、思いもかけない現実になってゆく。たとえ良かれと思っても、誰かを傷つけることもある。自分の与り知らぬところで、他人の人生を横切り、人生の軌道を狂わせてしまう――。

2500年前に釈尊(ブッダ)が看破した通り、この世界の実相は、自ら傷つき、そして他人を傷つけずには生きることができない誰もが耐え忍ばなければならない場所、まさに「忍土(にんど)」ではないでしょうか。それはまた、この世界に生まれてきた私たち人間が皆、内に罪を抱えているということでもあるのです。

人は誰も忍土に生きている――。そして忍土に生きるためには、その自覚を持つことがどうしても必要だと私は思います。その自覚を持つことによって、私たちは自らに、そして人々や世界への本当の優しさを湛えることができるのです。

あなたは、今すぐにでも友人に出会って謝罪したいというお気持ちに駆られているかもしれません。友人もまたその再会を心のどこかで願っていらっしゃるかもしれません。

けれどもその一方で、まだ友人がその過去を思い出すことすら望まないという状況も考えられるでしょう。直接の謝罪と再結(さいけつ:絆の結び直し)には時が満ちていないということもあります。

ですから、まずあなたに必要なのは、その「時」を待つということではないでしょうか。

もし、あなたと友人の双方を知っている信頼のおける方に「縁(えん)」になっていただけるなら、それが最善の道となるでしょう。その知人の方が、それとなく友人のお気持ちを確かめることが可能なら、「その時」は思いのほか近い将来に訪れることになるかもしれません。


しかし、それ以上にお伝えしたいことがあります。

これまでの人生において、あなたは友人との出来事を、どんなことがあってもじっと心の隅に置きながら、人生の時間を過ごしてこられました。そして今改めてそのことの痛みを噛みしめていらっしゃいます。

そして、あなたは、その痛みを噛みしめながら、友人の人生の道行きを案じ、友人の魂の安寧を祈ってもいらっしゃる。そのような時間は本当に大切な時間ではないでしょうか。もちろん、過去に残してしまった傷を埋め合わせることはできないかもしれません。その償いにもならないかもしれません。しかし、その時間があなた自身の、あなたが罪として刻印した思い出からの再生の歩みのように、私には感じられるのです。

仏典の中に、このような物語が記されています。

自らの師に欺かれ、悟りへの近道と信じて多くの人を手にかけてしまったアングリマーラという青年のお話です。この青年は釈尊と出会って、我に返り、その罪に気づくことになります。取り返しのつかない罪の意識を抱えた青年に、釈尊は出家して仏道を究める新たな人生を促します。その促しに従って沙門(しゃもん)として生き始めるアングリマーラですが、彼を見る世間の目は厳しいものでした。アングリマーラが托鉢に出かけると、必ず、過去の経緯を知る村人たちから怒号が飛び、石をぶつけられて血だらけになって帰ってきたのです。それを釈尊はこう言って受けとめました。

「アングリマーラよ。つらいだろう。しかし、その痛みに耐えるがよい。お前が犯した罪の報いを今お前は身に受け、そうしてお前は、過去の過ちの償いをしているのだから」

青年はその釈尊の言葉に、深く癒やされ、祈りとともに托鉢を続けたというのです。

これは、あなたとは比べるべくもない重大な罪を犯した青年の物語ですが、その痛みを受けとめることが償いであると諭された釈尊の言葉が心に響きます。

あなたが友人を裏切ったと思っていることに対し、自分の罪深さを心に刻み続けるように歩んできたということは、まさにその償いの日々を歩んできたということ。それは、罪からの再生の歩み以外の何ものでもありません。あなたはきっと、この日々の中で光闇極まる人間への郷愁、共感の想いを一層、確かにしてこられたはずです。

そして、できるならば、その中で知った、痛みを抱いた方々への思いやりをこれからあなたが出会ってゆく多くの方々に向けていただければと願います。人は、自ら負っている痛みが深ければ深いほど、悲しみや傷を負った人の心を敏感に受けとめることができるものです。忍土ゆえに傷つき、疲れた人を支え、光を与え続ける心を保ち続けていただきたいのです。それは、あなたが後悔とともに刻んだ日々から受け取った大切な贈り物であると私には思えます。