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【日々の疑問】祈ることにはどんな意味があるのでしょうか?

「祈ることに何の意味があるのだろう?」と考えてしまいます。これまで受験や友だちとの人間関係で悩んだときに、「神様、何とかしてください」と祈って願ったことはありますが、その願いは叶いませんでした。むしろ、その経験から「祈っても何も変わらない」と強く思いました。また、初詣や法事のときにも手を合わせたりしますが、形だけです。祈ることに、意味なんてあるのでしょうか?

19歳女性・学生

編集部より
ご質問、ありがとうございます。確かに、現代の多くの日本人にとって、「祈り」とは、寺社への参拝時や流れ星に「祈る」など、「願いごとを叶えるための行為」というイメージが強いと思います。しかし、「祈り」は、単に「願いごとを叶えるための行為」ではありません。高橋佳子先生は、祈りの意味について、著書の中で詳しく説明されています。その中から、ご質問に関連すると思われる箇所を一部抜き出してご紹介いたします。


「祈り」の本当の意味

高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約

人は、絶望の現実に突き当たったとき、祈らずにはいられません。耐え難いほどの苦悩、重荷を抱えたとき、心の底から新しい未来を願わずにはいられません。誰でも自分の人生を振り返ってみれば、祈らずにはいられなかった瞬間というものがあるのではないでしょうか。

幼い頃に両親にすれ違いが生じ、口論の日々が続き、やがて離婚の時を迎えなければならなかったとき、あなたはその日々の中で小さな胸を痛めながら何度となく祈らずにはいられなかったでしょう。ましてや若くして肉親を失うというような悲劇を経験したことのある人なら、母親を、父親を何とか生き返らせてほしいと神に祈り、懇願したでしょう。

たおやかに流れていた日常生活に、突然、不連続な特異点が現れるとき、人生の道すじが大きな変化を迎えるとき、私たちは、自然に祈りというものに向かい合うことになります。いいえ、そうではありません。自分が意志して祈りに向かうという以上に、私たちは祈りに誘われるということでしょう。

直面している現実が、自分には支え切れないと感じるとき、何とかしたいがとても自分には背負うことができない重さを感じるとき、引き受けなければならないのはわかっているが、とても自分には引き受け切れないと感じるとき、私たちは向こうからやってくる祈りに誘われます。

もちろん、祈りに誘われるのは、そうしたときだけではありません。絶望というわけではなくても、たとえば、進学のために懸命に受験勉強を重ねた末に試験会場に向かう車中で、仕事の命運を握る得意先との打ち合わせを明日に控えた夜、また、自分のことではなくても家族や親しい友人が人生の岐路に立っているとき、私たちは自然な気持ちとして、祈りたい気持ちになるはずです。

私にとっても、眼の前の現実は、いつも手に余る重さを抱えています。出会う方々1人ひとりが抱えていらっしゃる人生の重さ、1つ1つの出来事に関わる方々の想いの大切さ……。それらはどれほどのかけがえのなさを湛えているでしょう。成り代わることのできない1人ひとりの人生。人生の喜怒哀楽の1つ1つ。その人生の時を織りなしてきた喪失と希望、願いと後悔……。言葉を超えたかけがえのなさに、私は、いつも祈りとともに、出会うことを誘われてきました。


私たちが生きている世界は、1人の力では対処することができないような重圧と脅威をしばしば与えるものです。人間の歴史にはそうした力に翻弄される人々の姿が無数に刻まれています。


そして、そのような世界の中で生きようとする人間に不可欠な次元が宗教でした。人々が抱える現実の重さと関わってきた宗教は、祈りの大切さを説きます。どのような事態に対しても、その多くが、「祈りなさい」と導きます。キリスト教会然り、仏教においても浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などをはじめとする多くの宗派が、念仏や題目、お経を唱えることを勧めます。

しかし、もし「祈りなさい」ということだけを投げかけるとしたら、現代という時代において現実的な困難を抱えている人々にとっては、あまりにも力無く響くのではないでしょうか。

確かに、私たちは人間として、自らの限界に目覚めなければなりません。今日でこそ、多くの可能性と力を示してできないことはないという錯覚すら抱くようになった私たちですが、元来1人ひとりの人間は世界に対して無力です。私たちがその無力さを自覚して、自らを超える世界、大いなる存在に自らを委ねることを教えるのが宗教です。祈りもそうした世界への仮託(かたく)を示すものでした。

大切なことは、そのような祈りを絶えず湛えながら、この世界に流れている力に触れてゆくことだと思うのです。言葉を換えるなら、この世界を無秩序から秩序へ、混乱から調和へ、停滞から活性へ、破壊から創造へと導いている「指導原理」の流れに乗ることです。私たちのこの世界は、放っておけば、新しいものは古くなり、堅固な建築も朽ちてゆきます。しかし、その一方で、秩序や調和を導こうとする力の流れ(指導原理)も存在しています。私たち自身が、その指導原理に響き合うことによって、この世界にはたらく無秩序や混乱に向かう不可避の力を逆転することができるのです。指導原理との響き合い——。それは、私たちが自らの意志によって、なし得る努力とも言えるでしょう。古くからの「人事を尽くして天命を待つ」という言葉も、この人間的な努力と、そしてそれを超える大きな天命という宇宙の意志に自らを委ねる祈りの大切さを教えているように思います。どんなことでも、本当の調和なり、深化を果たした人の心には、必ず「祈り」があったのです。

それはただ祈るということではありません。「祈り」は、自らの人間的努力の果てに、世界に流れる指導原理の流れに乗るために、大きな力となるということです。祈りだけによって事態が光転するということはないかもしれません。しかし、祈りなくして本当の光転は難しい。それが真実だと思うのです。