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【日々の疑問】神を信じることができません

10代の頃から、「神は存在するのか?」ということを考えてきました。いまだに答えは出ません。これまで多くの哲学書や宗教に関する本も読みましたが、納得のいく答えを得ることはできませんでした。存在を証明できないのであれば、神を信じることはできないと思ってしまいます。

29歳男性・会社役員

編集部より
ご相談、ありがとうございます。今日の日本は無宗教の人が多いとも言われていますし、ご相談者の方のように「神を信じることは難しい」と感じる方も少なくないと思います。
「魂の学」では、何らかの特定の名前や形を持った神ではなく、世界を根底から支えている「大いなる存在」として、神の存在を捉えています。高橋佳子先生の著書の中から、ご相談に関連すると思われる箇所を一部抜き出してご紹介いたします。


ユビキタス——神は遍在する

高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約

「神は存在するのか」という問いは、信仰というものに向かい合ったことのある方ならば、誰もが自ら発したことのある問いかけです。しかし、多くの方にとっては、唐突に感じられるほど自分から遠い問いかけなのではないでしょうか。


特定の信仰ということではなくても、私たちが生きている世界に神の存在を認めるかどうか——。その一点によって、私たちの生き方は大きく変わります。神の存在とは、私たちの世界を根底で支えている大いなる存在と言い換えることもできるでしょう。むしろ、そのように言い換えた方が、今日的であるように思います。

少し乱暴な言い方ですが、広い意味で世界に超越的な存在やはたらきを認めるとき、私たちは、その世界を肯定的に受けとめることになります。そしてそのような世界に生きている人間をも、肯定的に受けとめることになります。たとえこの世界が多くの問題や不足を抱えていたとしても、最終的にその世界を認める。そして同様にどんな問題があろうとどれほどの未熟を抱えていようと、最終的に人間という存在を認める。1人ひとりを肯定的に受けとめることになるということです。

一方、大いなる存在を信じられないという人は、厳密な意味で、ニヒリズムを抱えざるを得ません。世界を信じられない立場であり、1人ひとりの存在に対するニヒリズムをぬぐい去ることはできない立場に立っていることになるのです。たとえば、唯物主義がそうです。目に見えるものしか信じないという立場は、現象に現れたもの以上の意味を世界にも感じ取ることはできません。もし、目に見えるものしか信じないが、どのような人生にも必ず意味があるはずだと考えるなら、その人はとても唯物主義者とは言えないのです。

私は、現代に生きる多くの人は、そうした大いなる存在に対して信じ切れないか、信じることへの躊躇(ちゅうちょ)を感じているように思います。それは、それだけ私たちの時代が深いニヒリズムに浸食されていることの証だと思うのです。

そしてあなたも、信仰心はないと言い切るお1人かもしれません。しかし、もしあなたが人間という存在を最終的には信じたい、この世界のあり方について、最終的には希望を持ちたいと思っているならば、あなたの中には人生や世界を意味づける大いなる存在を肯定する気持ちが隠れているのです。


「神が存在するのなら、なぜ、私たちの世界はこれほどまでに多くの悲惨と混乱に満ちているのか」


現代人の多くを覆っているニヒリズムの源にはこのような想いがあるのではないでしょうか。このような疑問に向き合うことを、私は自ら宗教に関わる者としての責任として大切にしたいと思います。


もし、世界を見守る存在があるとしたら、神の存在があるとしたら、なぜ世界は暗くなるばかりなのか。なぜ世界は悪くなるばかりなのか。なぜ、混乱のままの世界なのか。神の存在など信じられないという人は、心の奥でそのように感じているのではないでしょうか。つまり、世界を信じようとしても、信じられないような現実があるではないかという訴えです。

その現実は否定することができません。確かに見つめれば見つめるほど、私たちを取り巻く現実は希望を感じられるものではないかもしれません。

けれども、その中にあっても、未来を信じて世界を受けとめ、希望を掲げて世界にはたらきかけてきた人たちがいます。長い植民地支配のもと、支配と抑圧に打ちひしがれ、ニヒリズムに覆われていたインドの民衆に誇りと希望をもたらし、非暴力によってインドを独立へと導いたガンジー(1869〜1948)。細菌によって引き起こされる様々な病から人々を救うための道を開いたパスツール(1822〜95)。戦乱や疫病、飢饉の続く乱世にあって、絶望の淵に喘(あえ)ぐ人々を救うために念仏の道を開いた法然(1133〜1212)……。そうした人々だけではありません。名もなき多くの魂が、人間を信じ、世界を信じて歩んできました。そして私たちは誰もがそのように生きることができるのです。

何よりも忘れてはならないことがあります。それは、その現実を見つめている自分がいるという事実です。その現実に対して私たちがどう生きるかということは、私たちに任されているということです。

あなたは、こう問いかけることができます。

「私はなぜ、ここにいるのか。私はなぜ、この現実に出会っているのか」——と。

世界は悲惨と混乱のままの忍土ではないのです。なぜか——。それは、あなたがいるからです。あなたが生きる。あなたが歩む。あなたがその現実に関わることができるということです。

あなたが自分と世界を切り離してしまったとき、あなたは神の存在を見失ってしまうのです。


今、私たちの世界は急激な速度で変貌を遂げています。その変貌し続ける現代社会にあって、未来社会の1つの姿を示す言葉に「ユビキタス」という言葉があります。それはいつどこにあっても利用できるコンピューター環境のことを指す言葉です。

しかし、もともとユビキタスは、「神の遍在」を示すラテン語です。神はどこにも存在し、はたらかれている。そして私たち人間が応えることを待たれている——。

今私たちに求められている感覚の1つが、その意味での「ユビキタス」であることは間違いないと私は思うのです。

以前、こういう話を聞いたことがあります。

自分は信仰深いと認めている男性がいました。あるとき、村に洪水が襲ってくるという連絡を無線で受けましたが、彼は自分の信仰があれば大丈夫だと思い、家を出ようとしませんでした。

やがて水位は上昇し、ボートに乗った村人が彼の家を訪れ一緒に退避するように誘ってくれました。しかし彼は、「神様に祈れば助けてくださる」と言い、村人の言葉に従いませんでした。上空にはヘリコプターが飛んでおり、「はしごを降ろすから、安全な所へ行こう」と男が呼びかけてくれました。彼はそれでも、「自分には信仰がある。だから、祈る。神様が安全な所へ連れて行ってくださるから」と言って、それに従いませんでした。

しかし、水嵩(みずかさ)は増す一方で、彼はついに命を失ってしまったのです。

場面が変わって天国でのこと。この男性が、いよいよ、神様に面会するときが来ました。彼は神様に会うなり言いました。「どうして私はここにいるのでしょう。私は、あれだけ一生懸命信仰したのに、どうして助けてくださらなかったのですか」。そう訴えたのです。

すると神様はこう答えたと言います。

「私はあなたに、無線連絡とボートとヘリコプターを差し向けた。なのになぜ、あなたはここにいるのか」

神の意志は、それそのものとして現れることはめったにない、それは常に「応える人間」を通して現れるのだとその物語は語っているように感じました。

そして私は思うのです。ほかならぬあなた自身も「応える人間」として、今この世界に生きている、と。神はあなたを通して、この世界にその御業を現すことを待たれている——。そのために必要な一切を、すでに神は私たち人間に与えているのです。