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供養に意味はあるのでしょうか?

「死は永遠の別れ」と聞いたことがあります。私の周囲では、まだ両親や友人が亡くなったという人はいません。ですが、両親や友人とも「いつか二度と会えなくなる時が来る」と思うと、とても悲しくなります。また、「死は永遠の別れ」ならば、供養など行っても意味がないのではないかとも思ってしまいます。

21歳男性・学生

編集部より
ご質問、ありがとうございます。確かに世の中には、「死は永遠の別れ」という見方があります。そのように考えるならば、「供養などに意味はないのでは?」と思われるのも、無理もないことだと思います。
「魂の学」から見るならば、「死は永遠の別れ」ではありません。「供養」にも大切な意味があります。高橋佳子先生の著書の中から、ご質問に関連すると思われる箇所を一部抜き出してご紹介します。

供養の本質は「共に生きる」ということ

高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約

病や事故で、わが子を失った両親の悲しみ、あるいは最愛の伴侶を亡くしたときの痛みには、表現できないほどの苦悩と孤独を伴います。愛する人を失った悲しみと苦しみは、私たちの心に癒やされざる空洞を穿(うが)つものとなります。もう自分自身を、あるがままのその人の存在の前に置くことができないという空洞感が、もちろんその痛みの中心にあります。

しかし、一層その痛みを強めている背景には、現代を生きる私たちの中で自然になっている虚無感があるのではないでしょうか。死の先は無でしかない。人間は「死んだら終わり」という人間観です。それはごく当たり前の感覚のように思えるでしょう。

けれども、本当でしょうか。死の先は、一切の虚無でしょうか。死によって、その人の存在のすべてが消滅してしまうと本当に私たちは思っているのでしょうか——。実は、単純にそうとは思い切れない、割り切れない何かがあるからこそ、苦しみと悲しみが癒やされないのではないでしょうか。

人間は、決して「死んだら終わり」ではありません。人間の本質は、魂であり、永遠の生命として生き続けている。人の死は、それがどういう形であれ、実は、あの世への誕生にほかならないのです。その意味で、死は、私たちにとって決して永遠の別れを意味するものではありません。

これまでのように、傍に身を置き合うことはできないかもしれない。これまでのように、言葉を交わすことはできないかもしれない。しかし、虚無ではありません。大切なことは、関わり方が変わるということ——。今は肉体を持たず、あの世の魂として生きるその方と、今、そしてこれから、どのように心を通わせ、どのように関わり、どのように生きるかということなのです。


昔から、亡くなった方を弔うための供養という営みがあります。私たちにとって馴染み深いのは、お盆という風習ですが、それはすでに習慣化し、形骸化していると言えるものです。

供養とは、もともと敬いの心をもって三宝(仏・法・僧)、父母、祖先、師などに対して、飲食物や香や花、灯明、財物などを供えることを指したものです。その基にある心は、尊敬であり、感謝であり、大切に思う愛の心です。

つまり、供養の本質は、尊敬と感謝、そして愛の想い——。そこから生まれる魂との対話なのです。

どんな人も、永遠の生命を抱いて、あの世とこの世を往還してきた魂の修行者です。様々な人生の条件を背負ってのその道のりは、比べようのない唯一のかけがえのなさを抱いています。

あなたが人生を分かち合った、その方の魂の歩みを思い出すこと。その魂の足跡に想いを向けること。その歩みを具体的に辿ること。その1つ1つが供養の実際であり、魂を尊敬し、畏敬する想いこそが、供養の基となるでしょう。

そして供養とは、人生を終え、あの世に旅立っていった死者の冥福を祈ることです。この世に生きる私たちが、かつて十分に関わりを結び切れなかったり、逆縁(捩れた関係)になったまま他界していった肉親や知人への想いを改めて解きほぐし、あるいは、後悔やこだわりを残して逝った故人の想いを受けとめ、癒やしてゆく歩みのことです。先立った愛する人が、今どのような気持ちでこの世に生きる私たちのことを思い、どのように生きてほしいと願っているのか——その想いを受けとめ、そのまごころに応えて生きることでもあるのです。

供養の目的は、一言で言うならば、そうした「絆の再結(再び結び直すこと)」と互いの「魂の成長、成熟」にあると言えます。それゆえに、その霊に対して供えるべきは、何よりも、私たちの愛念に満たされた温かい心であるということを忘れないでいただきたいのです。


この世は、あの世から見れば、芝居の舞台のようなものであると思ってください。「あの世」という客席からは、スポットライトを浴びたこの世の人々がはっきりと見えます。亡くなった方々は、皆この世界にとても関心を持っています。とりわけ、生前親しかった方々や身内の方々に対しては、強い関心を寄せています。

だからこそ、生きている私たちが、今も亡き魂と共にあるのだと思うことが、その魂にとってどれほどの心強さ、どれほどの喜びとなるでしょうか。私たちが、旅立った魂のことを考えたり、その魂に心を込めて語りかけたりするならば、まして自分の人生や心を眺め反芻し、気づいたことや感じたことを伝えようとするならば、それは必ずあの世に生きる方にも通じ、その心が変わってゆく縁となります。

言葉を換えれば、私たちが人間として深化成長してゆくことが、そのまま、あの世の魂にとっての癒やしとなり喜びとなるのです。そのように、供養とは、供養する側とされる側の「あいだ」で成就されるものであり、見える世界と見えない世界とが響働する(共に響き合い、はたらき合う)ことによって、初めて成り立つものなのです。

ですから、供養の本質は、心の次元において、何より私たちと亡き方々との絆をいかに再生させるかということが重要となります。その歩みの中で、見えない世界と見える世界の境界が、心の中で次第に揺らぎ始め融け出して、あの世とこの世が切り離されたものでなく、ひとつながりであるように実感できるようになってゆくことでしょう。

死によって、人と人との絆は、決して断たれるものではなく、私たちは永遠の生命として、あの世とこの世で響き合いながら、互いに歩みを深め、成長してゆくことができるのです。

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