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【日々の疑問】どうしたら孤独と不安から自由になれるのでしょうか?

数年前に両親も亡くなり、1人で暮らすようになりました。仕事で忙しくしているときは気にならないのですが、仕事を終えて誰もいない家に帰宅したときや休日の夕方頃になると、「自分は独りぼっちなんだ」と無性に寂しくなることがあります。仲のよい友人は数名いますが、みんなは家庭を持っているので、「私は、最後は1人になるんだな」と不安になります。こうした孤独や不安から自由になることはできるのでしょうか?

56歳女性・会社員

編集部より
ご質問、ありがとうございます。仕事を終え、帰宅したときや、周囲がにぎやかな中で自分が1人でいるときに、「自分は独りぼっちだ」という不安や恐れ、孤立していることへの焦りを感じる――。おそらく誰しも一度は、こうした気持ちを抱いたことがあるのではないでしょうか。
なぜ私たちがこうした孤独や不安を抱くのか、そしてその孤独や不安を本当の意味で受けとめ、生きてゆくためにはどうしたらよいのか──。高橋佳子先生の著書の中から、ご質問に関連すると思われる箇所を一部抜き出してご紹介いたします。

すべてを受けとめて生きることができます

高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約

人間であれば誰もが、なにがしかの孤独と不安を抱えながら生きているのが現実です。自分は独りだという不安、孤立しているのではないか、のけ者にされているのではないかという焦りや恐れ。寄る辺のない心細さや、話し相手がいない、心を許す友がいないという寂しさ……。また、人生の途上で、それまで体験したことのない厳しい現実に直面して、かつて感じたことのなかった孤独と不安に苛まれることもあります。ときには何不自由なく、多くの人々に囲まれ、賑やかに暮らしていても、癒やし難い孤独を募らせている人もいます。そして、あまりの孤独と不安に耐えられなくて、人はときには罪を犯し、他人を傷つけさえもするのではないでしょうか。


では、この孤独と不安の対極にある状態とは、一体どのようなものなのでしょうか。実は、その状態を私たちの誰もが体験したことがあるのです。

私たちが、生まれる前、つまり母親の胎内にいるときは、そこは、ほとんど、胎児にとってはエデンの園ともいうべき安らかで安全な場所でした。やがて、その母親と一体だった安心から切り離されるのが誕生でした。そして、母親の産道を通って生まれてくる、そのときに感じた窒息感、閉塞感が、不安や恐怖の原体験として私たちの無意識に刻まれています。誰もが不安や恐怖を、息の詰まるような窒息感や閉塞感と結びつけるのはそのためです。

この世に投げ出されるようにして誕生した赤子。何もできない、無力な出発——それはあたかも大地から切り離された樹木のような根こぎの存在、不安と根本的な恐れを持つ存在として、私たちの人生は始まったのです。

そして、誕生後も、様々な違いと不平等が、その想いをさらに強めてゆくことになります。性別、容姿、資質、健康、能力、才能……。それらは時に人を区分けし差別し、人生を大きく変えるものとなります。それは、まさに不平等極まりない現実であり、理不尽としか言いようのない現実であって、私たちの孤独と不安は一層深まることになるのです。


つまり、私たちは人間である限り、孤独と不安を心の根底に抱きながら生きてゆかなければならないということです。そして、そうした孤独と不安を引き起こす現実を、あえて引き受けるところに、私は人間が人間である所以、人間が人間であることの尊厳があると思うのです。

なぜなら、私たち人間は、すべてを受けとめて生きることができるからです。それは、現実に妥協して生きるということとはまったく違います。あえてそれらを自ら引き受け、背負って生きること、そこに真の人間の魂の自由が示されるということです。

人は誰しも、大なり小なり、自分の人生や現実に、不本意な想いを抱いているのではないでしょうか。しかし、どんなに嫌いな自分の性格でも、どれほど情けない無力さでも、認め難い過去の出来事でも、そうなるにはそうなるだけの理由と、やむを得ない事情があったのです。そうならざるを得なかった事実であることを受け入れられたとき、私たちはそれらを条件として受けとめることができるようになります。条件として受けとめることは、それを決定的なものとはしないということです。つまり、条件として受けとめた上で、未来の可能性に集中できる自由を獲得するのです。

そしてそのとき、同時に私たちは、他の人々もまた自分と同じように孤独と不安を抱え、不自由さを抱き、同じ悩みを持っていたことに目が開かれるでしょう。

自分だけが孤独で不安で苦しかったわけではない。同じように苦しんでいた人たちが無数にいた。私たちは、同じ苦しみと同じ悲しみを共にする人間——同苦同悲の存在なのです。

そして、同じ弱さと愚かさ、孤独と不安の闇を抱える者として、その深い悲しみを自らの胸に持つ存在として、他人を慰め励まして生きるとき、人は初めて孤独と不安から解き放たれるのです。人間は、そのように共にあり、共に歩む存在です。

私たちは、1人ではない。孤独と不安の痛みの底を通じて、1つにつながっている「いのち」の絆で結ばれています。

それは、あたかも離れて見える孤島と孤島が、海底深くでつながっているように、一見別々なように見えて、見えない絆を結び合っています。

そして、実はあらゆる存在が、1つの「いのち」として結びついている。

私たちは、孤独と不安の痛みを通して、一切につながるいのちの絆を実感することができるのです。