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夫を失くして何もする気も起きません。一体、どうしたらいいでしょうか?

1カ月ほど前、主人が突然心筋梗塞で倒れ、先立ってしまいました。仕事一筋だった夫は60歳で定年退職し、ようやく夫婦で旅行に行けると楽しみに話していたんです。昨日まで当たり前のように過ごしていた生活が一変しました。今は夫が亡くなったなんて受け入れられず、ただただ悲しみと喪失感でいっぱいです。毎日がつらいだけで何もする気も起きません。一体、どうしたらいいのでしょうか?

61歳女性・主婦

私も最愛の妻を亡くし、同じような気持ちでした。それでも、「妻は今も“生きている”」と見えないつながりを感じ、深く癒やされてゆきました

佐々木一義さん
陸前高田市議会議員
65歳 岩手県

東日本大震災で、私の妻は命を奪われました。震災当時、私は陸前高田市のホテルに勤務。4人の子どもを育てあげ、子どもたちが巣立ってからは、夫婦2人で静かに暮らしていました。

それが、あの日、すべて変わってしまいました。津波によって最愛の妻を亡くし、多くの友人、知人も亡くし、職場もなくなりました。あまりの打撃に、心は打ちひしがれ、どうしたらいいのか、わかりませんでした。

けれども、「魂の学」の実践によって、私は前を向いて歩けるようになりました。そんな私の経験が、何かしらの手助けになったらうれしいです。


2011年3月11日――。津波によって愛する妻を失い、家も仕事もすべてを奪われてしまいました。茫然自失の中、心が折れて、世を恨み、人生を投げてしまっても不思議はないほどの危機でした。そんな私に、深い癒やしにつながる体験が訪れたのです。


その実感の1つめは、震災の夜のことです。「もし妻が無事でいれば、夜には戻ってくるだろう」と思っていた私は、祈るように自宅で妻を待っていました。しかし、待てども、妻は姿を見せてくれませんでした。

不安を募らせながら、ふと夜空を見上げたときのことです。そこには宝石箱からこぼれたような星々が、燃えるように明るく輝いていました。そのとき、私の心の奥からこんな想いがあふれてきました。「ああ、あの人たちの魂が、星になったんだ。……そうでなければやりきれない」。まるで亡き魂が自分たちの行方を知らせるかのように、私には感じられてならなかったのです。

妻の安否がわかったのは、その1カ月後――。私はそれまで毎日、仮設住宅から遺体安置所を1つ1つ訪ね、痛々しい亡きがらと数えきれないほど対面していました。もう心が押しつぶされそうでした。子どもたちに「今日が最後」と言って訪れた朝、妻とようやく再会したのです。せめてもの救いは、遺体に痛みがなく、普段のまま、まるでこたつでうとうとしている寝顔のようだったことです。「なんだ、ここにいたのか……」。私は涙を流しながら、妻に「お帰り」と語りかけました。


それからというもの、私は居ても立ってもいられず、近くの交差点が渋滞しているのを見て、交通整理を始めました。そして、いつしか「陸前高田の人たちのためにはたらきたい」という気持ちが日増しに募ってゆきました。そんなある日、急に体調が悪くなり、入院したときのこと。「この命だっていつどうなるかわからない。ならば、残された人生の時間、地元のために使いたい――」。そう思い、市議会選挙に初めて出馬し、当選を果たしました。


その後、私は「魂の学」と出会ったのです。そして、高橋先生から、「人は死んでも、すべてが無に帰すわけではない。人間の魂は永遠で、誰にも帰ってゆく場所、源なる場所がある」とお聴きしました。「あの震災の夜、満天の星を見て、湧き上がった気持ち――亡き魂たちの行方を感じたことは、本当だったんだ」と実感することができました。

それから震災5年目のお正月のこと。高橋先生が、私の仮設住宅を訪問されたんです。私と妻しか知らないような思い出や、妻の今の想いを、先生は伝えられました。

私は驚き、改めて、「妻は今も“生きている”」と、見えないつながりを感じ、深く癒やされました。「魂は永遠である」という先生のお言葉をさらに深く実感することができたんです。


生き残った者として、自分や家族を超えて、同じ痛みを抱えた人たちのために応えてゆきたい――。亡くなった人に対して、それに勝る供養はありませんし、きっと妻もそう願っていると感じます。私は、大切な人を失った悲しみを乗り越え、陸前高田市の未来のためにこれからも走り続けたいと思っています。

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