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【日々の疑問】宗教は必要なのでしょうか?

日々、ニュースや報道を見ていると、宗教団体が社会に問題を起こしていることが多い気がして、「現代の社会に『宗教』は本当に必要なのだろうか?」と疑問に思ってしまいます。私は特定の宗教を信仰しているわけではありませんが、むしろそうした宗教をもたない生き方の方が正しい生き方であるように感じてしまいます……。

20歳男性・学生

編集部より
ご質問・ご相談、ありがとうございます。あなたと同じような想いを、きっと多くの方が抱いているのではないかと思います。実は、私もかつて同じようなことを考えていました。「宗教は結局、迷信的なものにすぎず、社会的にも問題を起こす。理性や常識を頼る生き方の方が合理的で、正しい」と。しかし、他方で、理性や常識だけでは、いかんともしがたい現実に出会うのも人生の真実ではないかと思います。
高橋佳子先生は、現代社会における宗教のはたらきと宗教が果たすべき責任について、著書の中で述べられています。ご相談に関連する箇所を一部抜き出してご紹介いたします。

揺れ動く時代だからこそ、宗教は、すべてを受けとめて生きる道があることを示す責任があります

高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約

あなたは、あなた自身の人生や生き方を宗教的な次元から考えたことがあるでしょうか。そんなことは考えたことはないし、特段必要とも思えない――。そう考える人も少なくないかもしれません。

実際、多くの人が、宗教について、あるいは人生が抱いている宗教的な次元に対して、正面から向かい合うことなどほとんどないままに時を送っているのが現実でしょう。

かつて日本人が海外に行って、現地の人と日常の関わりが生まれるほど親しくなると、「あなたの宗教は何ですか」とよく聞かれたそうです。そして日本人が自然な感覚で「無宗教です」と答えると、海外の方たちは奇妙なものを見るような表情になったというのです。それは「生きる以上、どうして宗教なしに生きられるのか」という、現地の人たちの素朴な疑問だったのだと思います。

それでも、最近は欧米でも無宗教であると言う人が少なくないようです。キリスト教会に独善性や閉鎖性を感じて敬遠する若い人たちが少なくないと聞きます。宗教は人間を束縛するという懸念を感じているからと言えるかもしれません。そしてそれはわが国の若者にも共通する感じ方ではないでしょうか。


しかし、仮に無宗教ではあっても、宗教的な次元や宗教性と無縁に人生を生きることはできないと私は思うのです。

例えば、人間の「生まれ」について――。生まれた時代、場所、家柄、家族……。こうした人生の条件を、私たちは自分ではどうすることもできません。気がついたときには、他の誰でもない自分になっています。決定的な条件としてすでに与えられているものです。望ましい条件ばかりとは限りません。ましてやすべてが望ましいという人など皆無でしょう。人生の条件は、多くの人には重荷として与えられるものです。そしてその中の少なからぬ人にとっては、真っすぐに生きてゆくことを困難にさせるほどの制約になってしまう――。そうした重荷を背負わされたとき、どう受けとめればよいのでしょうか。

それは「生まれ」のことだけではありません。若さの中で体験する様々な喪失、勉学の失敗、失恋、さらには両親が離婚する、あるいは親が病で亡くなったり、事故で亡くなったりする……。逆に、自らが親になったとき、子どもが障害を抱えて生まれてきた。また愛するわが子を亡くす。大切に育ててきた子どもと心を通わせることができなくなり、その子が暴力を振るうようになってしまった……。あるいは勤め先でのリストラや会社の倒産などもそうかもしれません。そうした断絶の現実に直面したときどうするのか――。

私たちが当然のように生き、暮らしてきた日々の中で、突然、その日常を揺るがすような、自分の理解を超えた受けとめ難い苦難が降りかかったり、喪失がもたらされたりすることがあります。それは特別な人生ではなく、どの人生にもあることです。いかなる人生も避けられないものです。そしてそうした困難や苦境、喪失の多くは、何とか転換しようとしてもどうにもならないものであるということです。

あるいはすべてに満たされているような現実の中で、空しい想いに支配されてゆくという場合もあります。事業がうまくいっていても、家族が仲良くても、心にポッカリと穴があいたような気持ちになる……。

そのようなときに、「なぜなのか?」という疑問が湧き起こります。「なぜ、この家なのか?」「なぜ、私がここに生まれたのか?」「なぜ、こんなことが起こるのか?」「なぜ、私に起きなければならなかったのか?」「なぜ?」「なぜ?」……魂の中から突き上げてくる問いかけです。

そしてまさにそのときこそ、その自らの魂の問いに答えるために、宗教的な次元が絶対に必要なのです。逆に言えば、そうした「なぜ?」を心深く受けとめて、内面から新しい道を開いてゆくことこそが、本当の宗教性、宗教的な生き方にほかならないと思うのです。


今日、宗教に対する懸念が多くの人々の中にあるという事実は、そうなるにはなるだけの理由があったことを示しています。宗教というものが往々にして抱えてきた欺瞞性など、そうした状況を助長する原因があったと思います。伝統宗教の多くは現実との対話を置き忘れ、人々の具体的な要請に応えられない面があります。一方、歴史の浅い宗教の中には、組織的な拘束力をもって不自由さや偏狭さをもたらしたり、現実的な価値を強調するあまり宗教性を見失ってしまっているものも少なくありません。

こうした状況に対して、宗教の側は、何よりも、揺れ動く時代の中ですべてを受けとめて生きてゆくことができる道を示す責任があります。そして組織の力を誇示するのではなく、1人ひとりの信仰に基づいた生き方が新しい現実を確かに生み出してゆくことを、実践的に知らせる必要があるでしょう。宗教的な次元に触れて生きるとき、心境が深まり、現実が本当に深化することを、誰もが納得する形で示さなければならないと思います。

私たちの人生が、深く生きられるためには、宗教的次元が不可欠であること、私たちの社会が新しい現実を創出してゆくために、その中心として、宗教的な次元が必要であることは、決して変わらないことだと思うのです。

現代社会に生きるからこそ、魂が求めている宗教性について、ぜひ、あなた自身の内なる心の声を聞いていただきたいと思います。揺るぎない中心軸を抱いてこの時代を生き抜くために、魂の声に耳を傾けていただきたいと思います。それは、私たちが取り戻すべき、存在としての根の次元、世界の根の次元を見出す一歩にほかならないのです。