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人間は、死んだらどうなるのでしょうか?

10代の頃から時折、「人間、死んだらどうなるんだろう?」と考えることがあります。これまで、死や死後に関する宗教書や哲学書を何冊か読んだり、インターネットで調べたりもしました。納得できるものもあれば、奇妙な内容のものもあり、疑問は解けないままです。家族や友人に話しても、「そんなことを考えても仕方がないよ!」と言われてしまいます。その通りだとも思うのですが、ふとしたときに疑問が湧き上がってきて、その都度答えが出なくて、虚しい想いになってしまいます。

22歳女性・大学院生

編集部より
ご相談、ありがとうございます。「人間は、死んだらどうなるか?」という問いは、人生でどんな人でも1度は抱いたことがある疑問なのではないでしょうか。しかしながら、多くの人はこの問いに対して、「考えても仕方がない」と想い、「死」に対する問いを忘れてしまいます。しかし、いつか必ず訪れる「死」を見つめ、「死」について考えることは、実は私たちが本当の人生を生きるために、とても大切なことではないかと思います。
高橋佳子先生は、人間を魂として捉える永遠の生命観に基づき、「死」に対する考え方を示されています。著書の中から、ご相談に関連する箇所を一部抜き出してご紹介いたします。

永遠の生命として「死」を考える

高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

これは、『葉隠(はがくれ)』の中の有名な一節です。わが国には、武士道に限らず、このように生きることと死ぬことを1つに受けとめる感性が伝統的に培われてきました。道元禅師(どうげんぜんじ)の語る「生死(しょうじ)」という言葉にも、それと共通する響きが感じられます。

しかしそうした伝統に反するように、現代人としての私たちは、「死」を遠ざけ、日常から切り離してしまっているというのが現実でしょう。やはり、「死」は忌むべきものであって、退けられて当然のものになっているのではないでしょうか。

そして、それとともに、想像以上に強いのは、死とともに一切がなくなる、たとえば、心は脳の中にあって、肉体が滅べば必然的に心も消えてしまうという感覚です。

その証拠に、どうでしょうか。私たちは目に見えるもの、手で掴めて確認できるものを確かなものとして追い求め、目に見えないものは、ないものとして無視してしまいがちです。その結果、どうなるかと言えば、「今さえよければいい。人生1度きりなのだから、楽しいことだけいっぱいやって、後は野となれ山となれ」といった考え方が強くなる。「わが亡き後に洪水よ来たれ」という言葉がありますが、未来を想定しないために、どうしても「そのときさえよければいい」と刹那に流されることになっているのではないでしょうか。

しかし、人間の本質は、肉体が滅んだ後も生き続ける、あの世とこの世を生き通す永遠の生命です。肉体はこの地上に還りますが、魂はあの世へと還ってゆくのが真実なのです。私たちは永遠の生命として、転生輪廻(てんしょうりんね)を繰り返しながら、進化成長を続けてゆく存在であるということです。そして実は、私たちは誰もが、心のどこかで永遠の生命という感覚を知っているのです。

確かなことは、永遠の生命観において、生と死は、まさに1つになって織りなされてゆくということです。つまり、永遠の生命は、いつも「死」を生きている——。永遠の生命としての「死」への向かい方、そして「死」の生き方というものがあるのです。


誰もが死を避けて通ることはできません。人生で1度も体験したことのない、その死に対して、不安や恐怖を抱くのは当然のことと言えるでしょう。

私は、これまで、死に向かい合う多くの方の最期を見守らせていただきました。そして、死に対して不安を抱かれる方々に、私は、その枕元で、次のように語りかけてきました。


人間は、誰もが必ず死を迎えます。1つの人生に1つの死があり、それは誰にも平等に来るものです。その死という人生の卒業式は、人生に1度きり——。そして、誰にも成り代わることのできないのが、死の体験です。

1度も体験したことがないために、「死」を恐れ、不安に思うのは当然でしょう。そのうえ、私たちはこの世に生まれて以来、赤ちゃんの頃から、生存を脅(おびや)かされること、生命の危機に対して、強い恐怖心を抱いて生きてきているのです。だからこそ、想像以上に死を恐れる気持ちが強いのではないでしょうか。

でも、あなたがこの世界に、生まれて来たときのことを思ってみてください。想像してみてください。実は、あなたが生まれて来るときも、大変不安だったのです。しかし、立派に生まれて来ることができたから、あなたは今ここにいる——。

お母さんのお腹の中から生まれるとき、あなたはその産道を通ってきました。産道はあなたをギューギューと押してくる。それは、つぶれるのではないかと思うほどの力です。また、それまで肺で呼吸することも試したことがありませんでした。未知の世界、未知の体験。やがて外から明るい光がやって来て、「おぎゃー」と言ったら、そこはこの世だった——。あなたは自分でその中に飛び込んでいったのです。

実は、死も同じことなのです。

死ぬことはあの世に生まれるということです。一瞬、暗くなるけれど、そこをすっと抜ければ、必ず明るい世界に往けるのです——。


時には意識のない状態の方に語りかけることもありますが、たとえそのような状況でも、確かにその方の魂には私の想いが伝わり、受けとめられたことを感じてきました。死を迎えるときは、人生の中で最も時間の凝縮するときでもあります。生の密度の高い時間です。それだけに、一瞬一瞬、どう触れ合うか、何をお伝えするのか、祈りに誘(いざな)われながら、向かい合うひとときとなるのです。

そして私は、次なる世界への一歩を踏み出していただくために、続けて次のようにお伝えしてきました。

新しい世界で、必ず、あなたに語りかけてくれる光の存在がいます。慌てないで、その存在が、導き、教えてくれることをよく聞いてください。この世界に生まれて来たときに、あなたを多くの人が待っていたように、あの世に生まれるときもまた、光の存在があなたを待っているのです。

必ず、道はあります。そのことを信じてください。私たちが生まれて来たのが光の世界なら、還るのも光の世界です。


人間は、あの世からこの世に生まれ、あたかも季節が巡るように、少年期から、青年期、壮年期、実年期を経て、やがて年老いて、死を迎えることになります。したがって、死とは、永遠の生命である私たち人間にとって、1つの人生が終わってあの世へと旅立つ、まさに人生の卒業の時と言えるのです。そしてあの世に生きる時間を経て、またこの世に生まれ、新しい人生を送ることになる。死は、永遠の生命として、私たちが進化成長する1つの大切な通過点なのです。ですから私は、後悔があるならば、生きている今のうちに自らが変わり、心残りのないようにそのことを果たしておかれるようにと助言します。逆縁になって関わりが捻れてしまった方とは再び出会いの時を持ち、絆を結び直されるように、自分の願いや志をどうしても伝え遺しておきたい人たちには、その赤心を語られるようにとお伝えするのです。

この世で手に入れたお金も、建物も、地位も、名誉も、あの世には持って帰ることができません。次元を超えて携えてゆけるのは、魂に刻まれた願いと後悔であり、受信と発信の痕跡です。すなわち、魂に刻まれたネガの次元(精神世界)の足跡です。

ならば、そのネガの次元、心の受信・発信のはたらきを振り返り、それらを浄化する歩みを深めることです。たとえば、自らを超えて他を助ける、我欲を離れて他の方々に尽くす生き方を重ねてゆくならば、必ず身も心も軽くなり、魂もまた明るく軽い世界に上がってゆけるのです。

私は、実際にそう生きた多くの人々を見てきました。その姿はまさに美しく輝き、逆に生きている私たちを励まし、勇気づけてくれるものです。

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