#
# #

時の羅針盤・200

時の羅針盤・200

神理に従う

高橋佳子


表層から深層への誘い

新型コロナウイルスが席巻した今年、例年とはまったく異なる日常が私たちの周囲に現出しています。

しかし同時に、私たちは、夏の暑さをやり過ごし、朝夕には冷え込みが深まる秋を例年と同じように迎えています。

秋という季節は、外側に向かっていた私たちの意識を内側に誘う季節──。あるいは、ものごとの表層から、その奥底、深層に沈潜することを呼びかける季節と言ってもよいかもしれません。

昨年の講演会の講演内容を覚えていらっしゃるでしょうか。

そこでは、表層に流れる旋律と深層に流れる旋律という2つの旋律について、お話をさせていただきました。

私たちは、日常の忙しさに心を奪われていると、めまぐるしく変化する表層の出来事や事件ばかりを追いかけることになってしまいます。それに応えるだけで精いっぱいという状況も、めずらしいことではないでしょう。

けれども、どんなに忙殺されていても、その底辺に流れている旋律──私たちが本当に向き合うべきテーマを忘れてはならないということを、お伝えさせていただいたのです。

秋の深まりは、私たちをそのもう1つの旋律、深層のテーマへとごく自然に誘ってくれるのです。ぜひ、この時の呼びかけに、深く耳を傾けていただきたいと思います。

神理に従わなければ何の力もない

もう1つの旋律、深層のテーマにアクセス(接近)し、それに応えてゆく歩みは、神理に基づく生き方によってのみ可能になるものです。

神理を生きようとする私たちが、まず初めに深く心に刻まなければならないことがあります。それは、宇宙・自然の法則、人生の法則としての神理は、あまねく透徹しているということです。

それは、現実世界でも精神世界でも、変わりはありません。物質や形ある次元においても、形のない目には見えない次元においても、神理は一貫して浸透しているのです。

多くの人々は、意識することもなく神理に従って生きています。ほとんどの瞬間は、神理を土台としていることさえ自覚していないかもしれません。でも、何をするにしても、どんな願いを生きようとしても、いかなる目的に向かって歩もうとしても、その土台は宇宙・自然の法則、人生の法則にほかなりません。

神理に従わなければ何の力もない。神理に従えば力がある──。

それは、どんなに強調してもし過ぎることのない法則であり、だからこそ、私たちは、神理について深く感じ取り、それを正しく学び、生きることに向かってゆかなければならないのです。

光転の果報は恩恵として現れる

そして最後に、神理実践者として、私たちが、ぜひ、確かめておきたいことがあります。私たちが神理に基づき、新たな心と行いによって、それまでの暗転の現実を光転させることができたとき、私たちは、それは神理にかなった合理的な推移であると考えるでしょう。

確かに、因縁果報(*1)の法則から考えても、因縁を整えることによって、果報は新たになります。それは、必然的帰結と言えるものです。

けれども、私は、それと同時に、もう1つの感覚を持っていたいと思うのです。神理の生き方によって、現実が変わるとき──。たとえば、事態の暗転がとどめられ、可能性が引き出されるとき、あるいは人との諍いに終止符が打たれ、今までにはなかった信頼関係が生まれるとき、それが合理的な成果だと思えても、それだけではない。「正しい」と思うことを誰かに話して、心底わかってくれたとしたら、それは大変なことです。決してそれは、当たり前ではないのです。

私は、そこに世界の助力がはたらいていたと受けとめたいと思います。もし、私たちの心と行いによって、現実が光転し、人々が私たちの想いを受けとめて協力してくれたとしたら、そこには大いなる力がはたらいたに違いないのです。

私たちがどれほど努力したとしても、それらの変化、成果、光転の果報はいつでも恩恵としてもたらされるのです。

そのような感覚とそういう想いが交錯する風土を、私たちは育ててゆかなければならないと思うのです。

2020.10.25

〈編集部註〉

*1 因縁果報

「因縁果報」とは、原因と結果の法則のことを言います。あらゆる現象は、その元となる原因(因)が条件(縁)と結びついた結果(果報)として立ち現れていると見るのです。つまり、この世界における一切の生成と消滅を司るエネルギーの流れを、3つの極で捉えるものです。この世界に、因縁果報の法則から外れる現象は何1つありません。森羅万象、あらゆる現実は、この原因(因)と条件(縁)から生まれた結果(果報)なのです。
(著書『魂主義という生き方』190〜191ページより一部抜粋・要約)