
【日々の疑問】死は永遠の別れなのでしょうか?

先日、心筋梗塞で夫が亡くなりました。夫とは20代の頃、初めて就職した会社で知り合った同期であり、10年前に結婚して、2人で生活してきました。ある朝、会社に行く時間になっても起きてこないので、様子を見に行ったところ、もう目を開くことはありませんでした。その後、葬儀や親族への対応に追われる日々――。今月に入り、やっと落ち着きました。ふとしたときに夫のことを思い出し、「もう、会うことができない……」と痛みにも似た深い悲しみを感じて身動きができなくなります。この悲しみをどうしたらいいのでしょうか。
37歳女性・会社員
編集部より
ご相談、ありがとうございます。大切な伴侶を亡くされたとのこと、お悔やみ申し上げます。大切な相手であったからこそ、深い悲しみをお感じになっているとのこと──。私たちは人生の中で、誰しもが大切な家族や友人との別れを経験しなければなりません。
高橋佳子先生は、このような痛切な別れにどう向き合ったらよいのか、著書の中で述べられています。ご相談に関連する箇所を一部抜き出してご紹介いたします。
死によって、人と人との絆は、決して断たれるものではなく、私たちは永遠の生命として、あの世とこの世で響き合いながら、互いに歩みを深め、成長してゆくことができます

高橋佳子先生
『人生で一番知りたかったこと』より一部抜粋・要約
たとえどんな理由があっても、家族が引き裂かれることの痛みは深いものです。ましてそれが2度とまみえることができない別れであるとしたら、それは想像を絶するものとなるでしょう。
病や事故で、わが子を失った両親の悲しみ、あるいは最愛の伴侶を亡くしたときの痛みには、表現できないほどの苦悩と孤独を伴います。愛する人を失った悲しみと苦しみは、私たちの心に癒やされざる空洞を穿(うが)つものとなります。もう自分自身を、あるがままのその人の存在の前に置くことができないという空洞感が、もちろんその痛みの中心にあります。
しかし、一層その痛みを強めている背景には、現代を生きる私たちの中で自然になっている虚無感があるのではないでしょうか。死の先は無でしかない。人間は「死んだら終わり」という人間観です。それはごく当たり前の感覚のように思えるでしょう。
けれども、本当でしょうか。死の先は、一切の虚無でしょうか。死によって、その人の存在のすべてが消滅してしまうと本当に私たちは思っているのでしょうか──—。実は、単純にそうとは思い切れない、割り切れない何かがあるからこそ、苦しみと悲しみが癒やされないのではないでしょうか。
人間は、決して「死んだら終わり」ではありません。人間の本質は、魂であり、永遠の生命として生き続けている。人の死は、それがどういう形であれ、実は、あの世への誕生にほかならないのです。その意味で、死は、私たちにとって決して永遠の別れを意味するものではありません。
これまでのように、傍(かたわら)に身を置き合うことはできないかもしれない。これまでのように、言葉を交わすことはできないかもしれない。しかし、虚無ではありません。大切なことは、関わり方が変わるということ――。今は肉体を持たず、あの世の魂として生きるその方と、今、そしてこれから、どのように心を通わせ、どのように関わり、どのように生きるかということなのです。
この世は、あの世から見れば、芝居の舞台のようなものであると思ってください。「あの世」という客席からは、スポットライトを浴びたこの世の人々がはっきりと見えます。亡くなった方々は、皆この世界にとても関心を持っています。とりわけ、生前親しかった方々や身内の方々に対しては、強い関心を寄せています。
だからこそ、生きている私たちが、今も亡き魂と共にあるのだと思うことが、その魂にとってどれほどの心強さ、どれほどの喜びとなるでしょうか。私たちが、旅立った魂のことを考えたり、その魂に心を込めて語りかけたりするならば、まして自分の人生や心を眺め反芻し、気づいたことや感じたことを伝えようとするならば、それは必ずあの世に生きる方にも通じ、その心が変わってゆく縁となります。
言葉を換えれば、私たちが人間として深化成長してゆくことが、そのまま、あの世の魂にとっての癒やしとなり喜びとなるのです。……
死によって、人と人との絆は、決して断たれるものではなく、私たちは永遠の生命として、あの世とこの世で響き合いながら、互いに歩みを深め、成長してゆくことができるのです。

この記事をお読みになった方へ
生きること、人生におけるヒントが紹介されています
『心の力』高橋佳子著(三宝出版サイトへ)