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復興支援

復興支援

2011年の東日本大震災の折の災害時の支援

2011年の東日本大震災の折には、私たちは、災害の爪痕に深い痛みと言葉にならない衝撃を感じながら、震災発生直後に対策本部を設置し、<被災地の全会員の安否確認><救援物資の受け入れと被災地への搬送><義援金の受け入れ><医療、法律専門家グループの派遣><放射線被曝から身体と生活を守るための対応><復興ボランティアの受け入れとネットワーク>などを通じて、被災者の皆様と一緒に歩ませていただく想いで、支援の歩みを進めてまいりました。

その礎となったのは、高橋佳子先生が「皆さんの命を守り、生活・人生を守り、そして何よりも魂を守りたい」との明確な指針のもと、自ら陣頭指揮を執って全国の会員に支援を呼びかけられたことでした。

さらに、被災地の方々が健康の問題で不安になる頃には医療のスタッフが派遣され、次に、生活の再建を支援する法務の専門家が現地で相談の場を設けるなど、被災地の方々のニーズに応えて、段階的で具体的な支援を行いました。

そして、復興に向けて動き始めるタイミングで、青年をはじめとする全国からのボランティアの受け入れが進められました。このボランティアの取り組みには、かつて阪神・淡路大震災のとき、多くのボランティアが活動した体験の蓄積も様々に生かされることになりました。

「命」「生活・人生」を守るために

被災地の全会員の安否確認

震災発生直後、高橋先生は被災地の会員の皆様に宛てて励ましのお手紙を認められ、そのお手紙は、お1人お1人の安否確認とともに、東北本部約2000名の会員が身を寄せられた避難所やご自宅一軒一軒に、救援物資と一緒に届けられました。

「・・・・・・あなたの魂は必ず守ります。どのような事態にあっても、最善の白き道が一本あることを信じて、お心を強く保つことができますように・・・・・・」

(被災されたお1人お1人へ宛てられた高橋先生のお手紙より)

「こうしちゃいられない!」と私の気持ちにもギアがかかりました

停電で2日間はろうそくと懐中電灯で明かりを取っていました。ラジオのみの情報で、私は祈るしかない状況でした。震災の翌日には、総合本部から職員の方が先生のお手紙を届けてくださり、光を頂いて、「こうしちゃいられない!」と、そこから私の気持ちにもギアがかかりました。お手紙の中の「あなたの右手はいつも私が握っています」という先生のお言葉が胸に響き、「私も少しでも多くの仲間の手を握れるように精いっぱいはたらきたい」と思いました。そして、1人、また1人と、「大丈夫」「元気でいるよ」と連絡が取れるようになり、涙が出るほどうれしかったです。

(宮城県仙台市 60代女性)

訪ねて行くにも道路は寸断されているし、ガソリンもなくて・・・・・・

震災の翌朝から三陸ターミナルへ行って、会員名簿を見ながら安否確認を始めました。ところが、連絡が取れないんです。訪ねて行くにも、道路は寸断されているし、ガソリンもなくて、どうすることもできないんです。その後、動けるようになってからは、いろんな道を辿って、お1人の方を探すのにいくつもの避難所を訪ねて、ようやく再会できるという状態でした。それでも「先生だったら最後の1人を見つけるまで、とことん探されるだろう」と思うと、ただ無事を祈りながら仲間を探し続けましたね。そして、救援物資を持って避難所にいる仲間を訪ねると、「私のような一会員をよく探してくださった」と言って泣かれるんです。

(岩手県大船渡市 50代男性)

「無事です!」というお声を聞いた瞬間、もううれしくて・・・・・・

仙台市内は電気、ガス、水道はもちろんのこと、電話局も被災して10日ほどは電話が使えず、最初は携帯もなかなかつながらず、ただ待つばかり。かろうじて公衆電話が使えました。リンと公衆電話が鳴るや否や、ダッシュで走って受話器を取りました。「無事です!」というお声を聞いた瞬間、もう、うれしくて・・・・・・。命が互いにあることが、何よりも有難かったです。そして、「家を流された」と言われる方も、「命があるからよかった!」と大変お元気なんです。しかも、ターミナルにつながり、大事なものにつながった歓びを伝えてくださるので、こちらが励ましを頂いていました。「闇の中にこそ輝く光がある」という先生のお言葉の世界を、まざまざと見せていただいて、「ここからもっと強い1人ひとりがきっと生まれてくる!」と感じました。

先生から頂いたお手紙の中の「・・・・・・忍土だからこそ、どのようなときも神様はあなたと共に在ることをどうか忘れないでください」とのお言葉に、「絶対の安心」を実感しました。その心を持って、東北の復興に尽くし、痛みある方の傍らを歩みたいと思います。

(宮城県仙台市 60代女性)

おかげさまで、地震発生から2週間を経た時点で、99.8%、最終的に100%の会員の皆様の安否を確認することができました。

救援物資の受け入れと被災地への搬送

地震の翌日、いち早く近畿本部から救援物資を積み込んだトラックが出発しました。これほど早急な対応が可能だったのは、近畿の方々が16年前に阪神・淡路大震災を体験し、その痛みとともに共同体の絆を肌身で実感されていたからです。

そして、中京や東京、北海道、北陸、中国四国、九州と全国の皆様からも東北の仲間を思う救援物資が次々と寄せられました。

宮城研修センターに到着した救援物資は、そこから、道なき道を走って、被害が最も大きい三陸ターミナル、そして大船渡や釜石、陸前高田、気仙沼などに届けられました。全国からの救援物資は、2トントラック、4トントラック、さらには13トントラックで届けられ、総計すると、地震発生後2週間が経過した時点で、すでに100トンにも及んでいます。

さらに、こうした救援物資は、会員のみならず、陸前高田市小友町避難所、仙台市若林区六郷小中学校、亘理町逢隈小学校、山元町山下中学校、山元町役場公民館、石巻市石巻中学校、気仙沼市気仙沼高等学校、気仙沼市条南中学校などの多くの一般の被災者の方々がいらっしゃる避難所にも直接、次々と届けられています。今回の地震は、被害の範囲が広範囲に及んでいるために、多くの救援物資の配給が遅れがちな状況の中、GLAから本当に必要な物資が迅速に届けられたことに、一般の被災者の方々からも感謝の声を頂きました。

全国の皆様から救援物資を頂いて、命をつなぐことができました

福島県相馬市は、地震、津波、原発という3つの試練を受けて一歩も外に出られないような状況だったんですね。その中で全国の皆様から救援物資を頂いて、命をつなぐことができて、感謝の想いでいっぱいです。危険がある中で、仲間が命懸けで家まで食糧を運んでくださって、その皆さんの優しさに手を合わせてご馳走になっています。・・・・・・この現実は本当につらいのですが、大勢の方に守られて、支えられて、改めて共同体の底力と愛情の深さに、「幸せだな」と感じています。

(福島県相馬市 60代女性)

「GLAってこんなにまでしてくださるんですか・・・・・・」

私が住んでいる若林区は、津波の被害が大きくて、海岸に200人から300人もの方のご遺体が打ち上げられた場所です。特に海岸の近くに住んでいる会員の仲間のことが心配で訪ねてみると、そこは今まで見たことのないような惨状でした。「これが夢であったら」と思いました。ある仲間のところへ行くと、津波で家が流されていました。心配で避難所を訪ねると、その方は元気にされていて、本当によかったと思いました。救援物資をお届けする中で、今までお顔を見たことのない会員の仲間との出会いも頂いて、「GLAってこんなにまでしてくださるんですか」「GLAは動きが早いですね」と言って感謝してくださいました。

この大震災で、津波の恐ろしさとともに、絆の大切さを実感しました。「仲間の手を離してはいけない」ということを心に置き、いつでも皆さんのところへ出かけて行きたいと思います。

(宮城県若林区 50代男性)

全部流されて・・・・・・。みんなで抱き合って無事を歓び合いました

地震から4日後には、水もなく、食べ物もなくなっていたので、仲間が救援物資を届けてくださって、本当にうれしかったです。そのうえに、「何が欲しい」と尋ねてくださるので、「下着が欲しい」と答えて、頂いた段ボールを開けたら、そこには下着と一緒に歯ブラシが束になって入っていて、皆さんのお気持ちがズーンと沁みてきました。もう感謝しかありません。

5日後に会員の仲間と一緒に救援物資を持って、仲間のお宅へ行ったら、すごく感謝されました。家の中の物が全部流されて、泥の中にいらっしゃったんです。ご主人も泣かれて、みんなで抱き合って無事を歓び合いました。本当に、人は1人では生きられません。みんなで助け合わないといけない。そのことが呼びかけられていることを感じずにはいられません。

ご近所の方とも、食材を分け合ったり、おかずをつくってお分けしたり、今までにない交流が生まれています。周りにも被災された方がいて、救援物資をお届けしたときの、皆さんの歓ばれるお顔が忘れられません。

(宮城県東松島市 70代女性)

医療、法律専門家グループの派遣

ある方々は物資を運搬し、またある方々は物資を仕分けし、それぞれにはたらきに尽くしているように、医師や看護師、弁護士などの専門家は、そのはたらきを通して、1人でも多くの被災者の方々のサポートができるように、何度かにわたって被災地を回りました。

肉体を診るだけでなく、被災された方々が背負っている精神的な痛みも受けとめたい

震災の日は金曜日でしたが、すぐにトータルライフ医療の仲間の薬剤師の方に相談して、何とか間に合って問屋さんから必要な薬品を仕入れることがかないました。そして、翌日には仲間の皆さんの手を借りて医薬品のパックを270個ほどつくり、現地に持っていってもらえるように手配しました。

先生にお見送りいただき、トータルライフ医療のボランティア第一陣として、仲間の医師と看護師の4人で組んで大船渡の三陸ターミナルに赴きました。そこでは、肉体を診るだけでなく、被災された方々が背負っている精神的な痛みも受けとめたいと、何よりも「他人(ひと)の苦しみわが苦しみ」という想いを大切に、診療にあたらせていただきました。

これは後日、聞いたことですが、私たちのあとに法務関係の会員の方が三陸ターミナルに赴いて様々な相談に応じられたとき、一般の方も来られ、そのお1人が第一声で言われたそうです。「この間、GLAの医者の方たちが来て診てもらったんだけど、普通の医者と全然違った。親身に話を聴いてくれて驚いた」と──。

これからも全国の仲間とネットワークを組んで、できる限り救援活動に尽くしたいと願っています。

(埼玉県 50代男性 医師)

行政自体が機能停止の中、皆さんの不安が少しでも解消 されることを念じて・・・・・・

今回、私は、法務メンバー4名で三陸ターミナルと仙台事務所に赴き、「被災された会員の皆さんが抱えていらっしゃる問題に、少しでも道をつけることができるように」と願って、法律相談を行いました。「被害はあまりにも大きく、私たちのできることは小さい。壊れた家の後片づけをするように、1つでも2つでも一緒に石ころを拾わせていただきたい」という想いで向かいました。

被災地では、行政自体が機能を停止しているところも多く、例えば、住宅被害を受けた方が被害の程度に応じて受け取ることのできる生活再建支援金の制度説明すら、行政の手が回っていない状況でした。そのため、被災者の方々は、自分の家は「全壊」「大規模半壊」「半壊」のいずれに当たるのか、支援金はいくら支給されるのかといったことでも不安をお持ちで、このような細々としたことにまで悩ませてしまっていることを申し訳なく思いました。

そして、皆さんの不安が少しでも解消されることを念じてご説明すると、「周りはあれこれ言って、どれが本当かわからない。でも、私はGLAの弁護士さんに相談できて、よくわかりました!」と安心してくださいました。

弁護士である前に1人の人間として、困っている方々のもとに足を運んで相談を受け、共に道を探してゆきたい──。今、そんな気持ちでいっぱいです。

(福岡県 60代男性 弁護士)

放射線被曝から身体と生活を守るための対応

福島第一原子力発電所の爆発事故以来、福島県内に居住する多くの方々は、日々報道される放射能汚染に対して大きな不安を抱えています。その見えない恐怖に対し、どのように対処したらよいのか、どう未来への展望を開いていったらよいのかについて、「放射線被曝から身体と生活を守る」ための集いを東北本部の福島ターミナルをキーステーションとして開催しました。

当日は、「魂の学」を学ぶ3名の専門家の方から、まず「放射線被曝総論」として、放射線被曝とはどのようなものか、原子力発電所事故の現状と生体への影響について、説明されました。

次に「食品の除染の方法と工夫」というテーマで、内部被曝から身体と生活を守るにはどうすればよいのかが示され、最後に、内部被曝に続き、外部被曝に関して、身体と生活を守るにはどうすればよいのか、「実際に放射線量を測定する」方法について、具体的にお話しいただきました。

質疑応答の時間では、日常生活における掃除や洗濯の仕方から料理の仕方、また高濃度の放射線量を検出した土地の除染をどうすればよいのか・・・・・・等々といったことに至るまで、参加者の方々からの切実な質問に答えていただきました。

被災地では、福島ターミナルや郡山ターミナルを中心にして、総合本部から届けられた空間放射線量測定器を使ってデータの収集を行い、汚染マップを作成したり、食品汚染の測定も行っています。

一緒に考えてくれている皆さんがいて勇気が出ました

市では避難勧告を検討しているとの声も聞かれる中、どうしたらよいのか、心が折れそうでしたが、今日の集いに参加して、こんなにも一緒に考えてくれている皆さんがいることを知り、とても勇気を頂きました。

(福島 60代女性)

人間が起こしたことは人間が解決できると信じたい

私は、様々な事情から福島の地から離れることができません。でも、この現実を受けとめ、人間が起こしたことは人間が解決できるということを信じて、放射能汚染と向き合ってゆきたいと思いました。

(福島 50代男性)

今、私たち1人ひとりがアクションを起こさなければ・・・・・・

今日は、本当に(セシウム、ベクレルや外部被曝、内部被曝について)あるがままの現実を伝えてくださるGLAの方々の温かさを強く感じました。この場を設けてくださったことが何よりうれしかったですし、切実感を持って、今、私たち1人ひとりがアクションを起こさなければならないと感じました。本当に大変な試練ですけれども、まだ希望の光があるんだと実感できました。

(福島 40代女性)

復興ボランティアの受け入れとネットワーク

復興に向けて動き始めるタイミングで、青年をはじめとする全国からの延べ1万人に及ぶボランティアが、長期にわたって瓦礫の片づけや津波のヘドロの除去に当たりました。会員のご自宅はもちろん、会員をご縁として寄せられる要請や近隣の方々のご自宅、ビニールハウス……等々、あらゆる場所の片づけに向かいました。

心の中までお掃除をしてもらったようです

Sさんは、自宅とお店(酒屋)が津波の被害を受け、避難所生活をされる中で、中学生の娘さんが体調を崩してしまい、アパート住まいをされていました。GLAからの救援物資をお届けしたところ、ご主人ともども「有難い、助かった!」と歓んでくださいました。でも、「お店がヘドロで大変。真面目に暮らしていたのに、何でこんな目に遭わなければならないの。余震もあるし、毎日眠れない」と、身も心もすさんでいるご様子でした。

そこで、GLAの青年ボランティアをご紹介したんです。青年の皆さんがお掃除をされたその夜、Sさんからお電話を頂きました。「すごく助かった。少し前に同じ年ぐらいの一般のボランティアが来てくれたけど、GLAの青年たちは放つ気配が全然違っていた!」と言われ、まごころを込めてひたすらお掃除をされる姿に本当に感謝されていました。そして、「『祈りのみち』で、私たちも一緒に祈らせていただいて、何だか店の空気も浄化されたみたい。そればかりか、心の中までお掃除をしてもらったよう」と言われ、ご主人も「このようにすごい人たちを今まで見たことがない!」とまで言われたそうです。

そのうえ、店を閉めようと思われていたご主人が、「自分たちが元気になって店を再開し、地域に貢献することが東北の復興にもつながる」とお気持ちが変わられたそうです。青年の皆さんが神理実践し、生きる姿が、光となって周りの方の再生につながった──。私もうれしくてなりません。私自身もそのように生きて、東北の復興、日本の再生に尽くしたいです。

(宮城県仙台市 40代女性)

被災地の方々はずっと闘ってきた。そして、これからも・・・・・・

そのお宅は1階すべてが水につかって流されてしまい、最初は床から壁まですべてヘドロだらけで、とてもひどい状況だったそうです。もう家を取り壊してしまおうとあきらめていたときにGLAのボランティアの方々が来てくださり、希望を持てたんだということを聞きました。しかし、余震が来るたびにその想いもグラグラと揺れてしまい、すると青年が来てまた立て直して……の繰り返しで、今日まで過ごしてこられたことがわかりました。

1日目の作業を終え、片づけをしていると、道の向こう側から、1人のおばあさんがこっちを見ていました。僕はちょうど道の向こう側に止めてある車に荷物を運ぶときに挨拶をしました。そして、お話を聴かせていただくと、その方は、はす向かいのお家に住んでいて、ボランティアを頼んだがご主人が亡くなられて中止したこと、ご主人はもともと入院していて病院が被災し、あちこちの病院を転々とし亡くなってしまったこと、今は1階に仏壇がありヘドロの上にシートを敷いて寝ていること、49日まではそうすることなどをお話しくださいました。僕はそのお話を聴かせていただき、ただ驚くばかりでした。

『祈りのみち』の「同伴者の祈り」の中の、「悲しみと苦しみは、いつも誰かのそばにあります」という一説が心に響いてきました。このボランティアを通して、この3カ月間、被災地の方々は闘ってきたということ、そしてこれからも闘っていくんだと思いました。人々の痛みを少しでも受けとめ、癒やせる者になりたいと思っています。

(東京 20代男性)

ヘドロの下に柔らかい土があり、そこからきれいなユリの球根がたくさん出てきた

3月11日に津波の様子を中継で見ていたときは、何が起きているのかわかりませんでした。みるみる波が町を覆っていく様子を見ても、これがまさかすべてを破壊し、人を呑み込んでいることを想像できませんでした。そして、先生が胸を詰まらせながら語られる姿を見ても、どうしてもそのリアリティが自分にはないことが悔しく情けなくなりました。ボランティアに赴きたいと思った動機は、現実を目の当たりにして目を覚ましたいというのが第一でした。

私は今回、Aさんという会員さんではない一般の方のお宅で、庭の固まったヘドロの撤去作業をさせていただきました。一見被害は少なそうに感じましたが、ヘドロは層となって庭を覆い、地下水が湧き出ていた井戸ももはやヘドロで侵されていました。作業はヘドロを土嚢袋に入れて一輪車で集積場所に運ぶという単純なものでした。しかし、ヘドロの入った袋は想像以上に重く、重労働でした。

最終日は、ヘドロをかき出しているときに時間切れが来てしまいました。「もう少しだけ時間が欲しい。このままやめたくない」と、胸が引き裂かれるような気持ちになりました。いつまでも時間があるように錯覚してしまいますが、本当にやるべきことを果たすためには、時間なんていくらあっても足りないことを感じました。
Aさんの奥様が大切にしている花壇の復興をお手伝いできたことがうれしかったです。ヘドロの下に柔らかい土があり、その中にきれいなユリの球根がたくさん出てきて、この花壇が復興していく予感を感じました。何よりAさんご夫婦に喜んでいただけたことが本当にうれしく、別れ難い気持ちを頂きました。

考えてみると、目の前で困っている方のお手伝いをするというのは初めての経験でした。被害の大きかった被災地に連れていっていただき、そこで200メートル以上はある赤と黒の大きなタンカーが陸に佇んでいるのを見ました。見ているものが理解できない感覚とともに、心に焼きついています。

(東京 20代女性)

「魂」を守るために

これらの支援の歩みの根底には、人々の”魂を守る”という、GLAが大切にしてきた中心軸があります。

私たちは、人々の”魂を守る”ことこそ、支援の歩みにおいて、最も切実な呼びかけであると考えてきました。高橋先生も折あるごとに、自ら被災地に足を運ばれ、犠牲となった魂に祈りを捧げ、家族を亡くした方の悲しみを癒やしてゆかれました。また、震災で大きな被害を受けたご家庭や、放射能汚染の問題に向き合い続けている福島の方々、津波で家を流され、今も仮設住宅にお住まいの方など、被災された方々を訪ねては対話のときを持たれ、時間の許す限りお1人お1人に関わられ、励まされてゆかれました。

同時に、先生はこの間、被災地への想いを込めた3冊の詩と写真集『果てなき荒野を越えて』『彼の地へ』『希望の王国』を発刊されています。それらはいずれも、無念にも亡くなられた方々への鎮魂と、この現実を受け入れて生きてゆかざるをえない人々に寄り添う励まし、それでも前を向いて生きてゆこうとする人々の中に輝く可能性への賛歌に満ちたものになっています。

そして、それらの印税を被災地に寄付されるために、自ら東北に赴かれ、岩手県、宮城県、福島県の3県の知事と面会されました。1人の知事は「行政は、人の心の深いところまではなかなか手が届かないので、この本で多くの方が励まされていることは非常に有難いです」と感謝の想いを伝えられました。
3冊の書籍の反響は大きく、被災地に居住される方々からはもちろん、全国、そして海外からも、共感と感動の声が1000通以上届けられています。

支援活動を支える、GLAの実践の風土

人は皆、永遠の生命を抱く魂の存在──。高橋先生の「魂の学」は、私たちが、時代や地域、家族など、異なる条件の人生を何度も経験することを通じて成長と深化を果たし、魂が抱く目的と使命に応えようとしている1人ひとりであることを教えています。

「魂の学」の実践とは、人生に訪れる出会いや出来事を魂への呼びかけとして受けとめ、それに応えて自らの心を育み、人生の目的と使命に近づいてゆく歩みです。

その中で、私たちが特に大切にしているのは、「試練は呼びかけ」という姿勢です。様々な困難や問題は、私たちにこれまでの生き方とは異なる新たな生き方への転換を呼びかけていると受けとめるのです。

何か問題が起こったとき、まず自分自身の内側を見つめ、心を転換して自分が変わり、その変わった自分が世界と新たな関わりを結ぶことで、現実に応えようとする──。それは、「魂の学」の実践において、常に一貫した姿勢と言えるものです。

そして、それは、被災地支援の歩みにおいても、変わることなく大切にされました。例えば、多くの青年たちにとって、こうしたボランティア活動は初めてのことでした。津波によって運ばれたヘドロで覆われた家々を掃除することも、経験したことはありません。取っても取ってもなくならない泥やヘドロ──。本当に期間内にきれいにできるのだろうかと不安がよぎりました。

しかし、青年たちは、支援ボランティアを新たな挑戦と受けとめ、揺れ動く心を建て直し、日に日にその技術を磨き、作業に工夫をこらして、困難を乗り越えてゆきました。

そんな青年たちが放つすがすがしさと明るさによって、心に希望が灯ったと被災地の皆様から感謝の声が届けられたことは、私たちにとっても大きな励ましとなりました。

1人ひとりが、どんなときでも、自分の心と現実をつないで見つめることができるあらゆるメソッドが、GLAには蓄積されています。そして、危急のときにも、ボランティア1人ひとりを通して、その力を発揮しているのです。