
3つの「ち」(血・地・知)とは、すべての人が例外なく抱く人生の条件で、両親や家系から流れ込んでくる生き方を象徴する「血」(ち)、土地や地域から流れ込んでくる習慣や生き方を示す「地」(ち)、そして時代から流れ込んでくる価値観や生き方を示す「知」(ち)のことを指します。
私たちの誰もが、生まれてきたことで、必ず、こられの3つの「ち」を様々な形で引き受けることになります。両親や家(あるいはそれに代わる存在や場所)から、自分が生まれ育った地域や土地から、そして時代やその社会から、私たちは自分ではそれと気づかず、多くのものの見方や考え方、価値観など、心の形を決めるものを引き受けることになるのです(図を参照)。
この3つの「ち」は、自分の外から流れ込んだものであるにもかかわらず、それらが、いつの間にか、唯一の「自分」になり、唯一の生き方になってしまいます。人間の生き方の可能性は無限と言ってもよいのに、その中の一つに無自覚に固執するのです。それらは、誤った信念となり、先入観となり、思い込みとなって、人生を陰で支配し続けてしまうのです。

人間の心は、受発色の傾向によって、大きく4つのタイプに分類することができます。なぜ4つに分けることができるのでしょうか。
受発色の回路を分類する第1の軸は、物事を肯定的に捉える傾向か、否定的に捉える傾向かの区分けを示しています。これは、人間の心が何かを感じ取った瞬間、「快・苦」という基準で2つに分けるということから来ています。
人間の心は、常に自分にとって「快」か「苦」かを感じ取って受けとめます。それは、もともと生存のために不可欠な機能なのですが、この「快・苦」の延長線上に、やがて「好き・嫌い」「「損・得」「善・悪」といった価値判断も行われてゆくようになるのです。
第2の軸は、心が抱いているエネルギーの放出の仕方によっています。エネルギーがどんどん増幅してゆくのか、減衰してゆくのかという「暴流・衰退」の区分けです。
「暴流」は、事態に対して心のエネルギーを集中させ、能動的に反応してゆく傾向のこと。「衰退」は、事態を前に心のエネルギーを分散させ、受動的に反応してゆく傾向のことです。例えば、苦痛を感じて反撃に出るのが「暴流」、逃避に向かうのが「衰退」です。
そして、先に見た「快・苦」という基準を縦軸にとり、「暴流・衰退」を横軸にとった座標軸によって、受発色の回路は4つのタイプ――「快・暴流」「苦・暴流」「苦・衰退」「快・衰退」――に分類されることになるのです。
私たちの心は、日々、電光石火のスピードで絶えず動いており、その動きを本当に自覚することは容易なことではありません。その一瞬一瞬の心の動きをあるがままに写し取るのが「止観シート」です。止観とは「自覚的に止めて観る」という意味で、一瞬の心の動きを「出来事」「感じ」「受けとめ」「考え」「行為」に分けて記入してゆきます。一日に数枚でも、特に心が動いた場面について取り組むことで、次第に自分の心の動きがスローモーションのようにつかめるようになってゆきます。

私たちが直面している様々な問題をどのように解決してゆけばよいのか、その問題解決のためのメソッド(実践方法)が、ウイズダムです。これまでの自らの心を転換して本当の願いを思い出し、具体的な条件を整えることによって、問題解決と新たな現実の創造してゆくステップが用意されています。ウイズダムは、外なる問題の解決に力を発揮するばかりでなく、内なる心を転換し、この世界に生まれてきた魂の願いを思い出して生きる実践の道でもあります。

| (1) | 聞く行 |
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「快・暴流」の方は、相手の人を受けとめる心を育むことが大切です。その第一歩は、まず相手のことをよく聞こうとすることから始まります。
「聞く行」は、大変奥が深く、取り組みに当たっては、次の「3つの『きく』(聞く、聴く、訊く)」という深みがあることを心に置きながら取り組むことが大切です。
まず、「聞く」とは、生理的に耳に入ってくることを聞くことです。したがって、先入観や思い込みのまま聞いてしまったり、決めつけで聞いてしまうことにもなりがちです。次の「聴く」とは、一生懸命、そうした先入観や思い込みを外して、相手の心まで出かけてゆき、相手の心に自分の心を合わせて聴こうとすることです。共感力がなくては、「聴く」ことはできません。さらに、「訊く」とは、相手の心にもっと接近して、気持ちを汲み取り、受け入れ、訊ねながら訊くことです。相手の魂、人生を訊くわけです。
聞くという行いには受動的なイメージがありますが、実際には、共感力を持って相手の方のところまで出かけてゆく、極めて積極的な行いです。「聞く行」は、自信家=快・暴流の傾きを超えて、本当の自分に近づいてゆく歩みであるとともに、思い通りにならない現実を受けとめて真の安らぎへと導くもの、現実を変えてゆく力を持っているものにほかなりません。
| (2) | 同伴の行 |
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快・暴流の人は、ややもすると目的を遂行するために周囲を無視したり、人を道具にして使ってしまうところがあります。ですから、「同伴の行」によって、自分以上に相手の方を愛する想いを引き出してゆくことが大切です。まず相手を深く知るために、何かを一緒に行うことが一番よいでしょう。いつもなら、自分が勝手に関わりを結んで一方向になっているところを、一方的に指示するだけではなくて、ちょっとしたことでも、一緒に物事に取り組んでみることです。例えば、仕事において、「いちいち説明するのは面倒」と思って、何かを聞かれても取り合わない傾きがあるならば、聞かれたら丁寧に説明する。また、もし自分の知らないことであれば、一緒に調べてみる。あるいは苦手なメンバーも避けることなく共に仕事をしてみることです。自分の思い通りではなく、その方の可能性を引き出すように、自分の都合を横に置いて共に歩むのが「同伴の行」です。そうして相手の気持ちや背景を理解することが、実は人間としての真の強さと優しさに通じるのです。
| (3) | 陰徳の行 |
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快・暴流の人は、自分に手応えのあることだけにエネルギーを使う傾向があります。つまり、はっきりと「図」になって目に見えるところにはエネルギーを注ぐのですが、その「図」を支えている目に見えない「地」には、エネルギーを向けなくなります。しかし、目に見える「図」は、見えない「地」があって初めて存在できるのが、この世界の真実の姿です。例えば、地球(図)は、太陽系というシステム(地)があって、星々の間に引き合う力が働き、初めて自転、公転することができます。太陽系から銀河系まで、それぞれが支え合い、単独で存在するものは何一つありません。その事実を、人間的な次元の言葉にすると、「陰で徳を積んでいる」(陰徳)ということになるのです。「陰徳の行」によって、「人様を支えさせていただきたい」という足りない筋肉が育まれることによって、まさに魂に眠ってきた本来の輝きを引き出すことができるようになるのです。
| (4) | 思いやりの行 |
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思いやるとは、自らの思いを相手に送ることによって、相手は本当は何を考え、何を思い、どうしたいのかを想像し、感じようとすることです。もし、自分の中に、「いちいち人のことを考えていたら、何もできない」といった気持ちがあるならば一度立ち止まってみることです。そして、「本当に皆にとってそうすることがよいことなのか。実は自分一人の思い込みではないのか」と問うてみるのです。実は、圧倒的に自分だけの思い込みであることの方が多いのが、快・暴流の特徴だからです。また、今まで一方的に命令したり、自らの目的遂行ばかりを考えてきた自分をとどめ、相手の気持ちになってみること。さらに、すぐに自分の価値判断や「こうに違いない」という思い込みが動こうとするとき、それを止めて、自分を無にするつもりで相手を思いやることを続けてみてください。そしてその人にとって一番良いような道を思い、考え、選び、具体的に手をかけ、足を運び、胸を貸すことです。
| (5) | 譲与の行 |
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快・暴流の人は、自分の得になることにとても敏感です。例えば、混んだ電車の席に座りたいと思うとき、「我先に」と空いた席を取りに行ったり、皆で食べ物を分け合って頂くときなど、自然にその中で一番いいものを先に取ったりすることはないでしょうか。また、すぐに評価され、脚光を浴びて賞賛を得ると思える仕事を選ぼうとします。そういうときにこそ、「ちょっと待てよ」ととどまり、目立って早く結果が出そうな仕事の方を相手にお譲りする「譲与の行」わけです。逆に、大変で、目立たず、評価もされにくい仕事を自ら選んで行ってゆくのです。譲与とは、譲り、与えることです。ですから行を実践したときに、「私は今、あなたに譲り与えたんだよ」などと思ったり、言ったりしては、「譲与の行」にはならないわけです。また、もっと積極的に周りの方のために自分が損をしてみることも大切です。それは単純にお金を使うことではなくて、相手の方のために自分の時間を使う、能力を使わせていただくことであり、それも「譲与の行」の一つと言えるものです。
| (1) | 和顔愛語の行 |
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苦・暴流の人は、怒りを顕わにして相手を罵倒してしまう傾向があるために、「和顔愛語の行」、つまり温かい笑顔と優しい言葉に努めることが必要です。初めは、「それだけで本当に人生が変わるのだろうか」と思われるかもしれませんが、実際、世界が一変したと感じるほどの人生の転換を経験された方は数多くいます。何より「和顔愛語」という行いの変革は、柔和で 思いやり深い心を育てることになります。「和顔愛語」とは、本当の意味で隣人を愛する気持ち--「すべての人に仏性があり、かけがえのない方たちなのだ」という想いで出会うということです。出会う方に対して、心の中で手を合わせる気持ちで向かい合われることが大切でしょう。それは、すべての人を平等に思い、大切にする気持ちにほかなりません。この行を行うことを通して、何より自らの内なる光に目覚め、その輝きが、周りの多くの方々の心を癒し、一人ひとりの真の個性の開花を支える縁になってゆくことを体験されることでしょう。
| (2) | 内省の行 |
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苦・暴流の人は、正論を言って相手を責めてしまう癖があります。それを超えるためには、「内省の行」によって、相手の失敗の中に、自分の責任を見つける心を育むことです。「自分の責任はなかったか、自分に非はないか」と自らを振り返り、相手に現れた問題を自分自身に引きつけるのです。そして、小さなことでもよいから、自分なりの責任の取り方を考えて行ってみます。例えば、子どもが起こしたならば、父親として「子どものことは妻に任していたのに何やってるんだ」と責めるのではなく、まず「自分に非はなかったか」と振り返ってみる。そして「どういう形での責任の取り方があるだろうか」と考え、それを実際に行うことです。子どもに「一体何が起こったのか、もっと率直にお父さんは話が聞きたい」と聞いてみる。そして「一緒に道を考えよう」と、何か責任が取れないか具体的に考え、行ってゆく。「内省の行」によって、問題の原因が、実は自分にあったことに気づき、自分が変わることによって心の安らぎと人々との絆の実感へと導かれるのです。
| (3) | 献身の行 |
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苦・暴流の人は、どうしても「何が足りない」「こうされた」と被害者意識に陥ってしまう傾きがあります。そして、荒れたエネルギーで関わってしまい、発言も関わりも過激な方向にゆき、それを自分でも止められなくなってしまうのです。「献身の行」は、まず、「自分は、無理な欲求や期待、高すぎる理想を抱いていないだろうか。叶えられて当然と思っているのは、本当に正しいのだろうか。相手に反感を持つのは妥当なのか」と、荒れて強く出すエネルギーを内省することから始まります。そして大きな耳を持って相手の気持ちを聞こうとして、身を運んでゆくことです。さらに、「これが足りない、あれが足りない」と批判をする前に、それに気がついたら、自分を砕いて、他の人のために一つでも二つでもして差し上げること。自分が陰となって支えるわけです。「献身の行」は、かつて体験したことのない心の安らぎと人との出会いをもたらす計り知れない力を発揮する行です。
| (4) | 調御の行 |
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「調御の行」とは、世界を不満や批判、拒絶の心で受けとめ、正論で責めてしまう自らに対して、「ちょっと待て。これで私は現実を壊してきたんだ」ととどまり、言わなくてもいいことを言ってしまう流れを止めることです。胸の中にカーッと怒りのエネルギーが湧いてきたら、まず深呼吸をして、怒りのエネルギーの内圧を鎮めること。これは非常に大切なことです。呼吸を整えて、「ちょっと待て。この先は地獄」と自らに言い聞かせて心を調御してゆくことです。感情の嵐の中にあって、かつてこの嵐が起こったまま行為して、どう現実を壊したか--数々の苦悩や不幸を、後悔をしっかりと思い出すのです。「このままだったら、また破壊の現実だ。あの後悔の現実がまた生まれてくるぞ」と自らに言い聞かせる。批判の一言を止めて、相手の話を聞き、相手の気持ちに耳を傾けること。受容、内省、共感の心で受けとめ、砕身、献身、愛語をもって関わることへ、心を転換させてゆくのです。
| (5) | 心を開く行 |
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苦・暴流の人は、世界を拒絶し、頑固な態度で関わるという傾向がありますので、自分から心を開いて出かけてゆくという「心を開く行」を自覚的に行ってゆくことが大切です。相手が来るのを待っていてはいけません。相手の方が「まあ、そう言わないで、こちらにいらっしゃい」と優しい言葉をかけてくださるのを待つのではなく、自分から出かけてゆく。例えば、知っている方に出会ったときには、一歩踏み出して、「おはよう」「こんにちは」と、自分から心を開いて声をかけ、挨拶をする。いつもであれば「人間関係が難しいから、自分一人でやろう」と思うときでも、時には「誰か一緒に仕事ができる方はいらっしゃらないかな」と、共同作業ができる方を見つけ、「一緒にやってくれませんか」とお願いする。もし、相手の方が素っ気なくしても、「ああ、まだまだ自分の努力が足りない」と考えて、また声をかけてみることです。そうすれば、必ずあなたにとって新しい人生が開かれてゆくことを体験されるでしょう。
| (1) | 持続の行 |
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苦・衰退の人は、何か物事がうまくゆかないと、すぐに人のせいにしたり、外に理由をつくって責任を転嫁してしまう傾向があります。その癖を超えるための行が「持続の行」です。それは、どんなに小さなことでも結構ですから、一つの物事が成就する始まりから終わりまでの「起承転結」の環を結ぶことを経験することです。例えば、仕事であるならば自分が受け持っている課の改革でも、家庭では料理でも掃除でも、まずは自分が主体的に行うことを決めて、実際にそれが成就に至るまで、自ら責任を持って行い続けることです。そうしますと、自分の中に自信が生まれ、柱のようなものが立ってくる感覚を体験されるでしょう。それが新たな人生を切り開く核となってゆくのです。
| (2) | 止悪の行 |
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苦・衰退の人は、周りの人に愚痴をこぼしたり、自分の内にある諦めの思いや虚無感を、言葉にして外に流してしまうという傾向があります。その結果として、周りも自分も不幸になってしまう。ところが、自分がそのようなことをしているという意識がないことが多いのです。ですから、まず自分が愚痴をこぼすことが、実は周りに害悪を及ぼしていることを自覚することが重要でしょう。その上で、そうした負の影響を生む原因を外に出さない「止悪の行」に取り組むのです。「あれも足りないこれも足りない」「何であの人はあんなにひどいんだろう」と、心に愚痴が湧いてきたら、まずはその心の動きを止める。心の中で「ちょっと待てよ」をかけられるようにしてゆくことが大切です。次に、相手や事態の不足を上げ連ねるのではなく、逆にその不足に対して「自分にできることはないか」と探して、それを現実に行うことです。足りないところを自らが担うことによって、現実に穴は埋まり、毒も周りに流れなくなります。
| (3) | 挑戦の行 |
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苦・衰退の人は、すぐに物事をあきらめて、「できない」と投げてしまったり、何かを行う前から心が過剰に動揺しまったりすることがあります。したがって、「少しハードルが高いな」と思えることに対して、自分の身をなげうって挑戦してゆく「挑戦の行」が重要になります。できないと思ったことでも、人から「やってごらん」と言われたら、まず引き受けてみる。また、「怖い」という思いが出てくるとき、「ちょっと待て。本当にそれは怖いのか」と、自らに問いかけてみることです。それは昔、どこかで経験したことのある怖さが、心の中に住んでいて、それが自らの中に恐れを生み出していることがあるのです。その内なる恐怖のエネルギーに対して、挑戦してみることです。そして、本当に自分が大切にしたいこと、願いは何かを自らの心深くに問い、そのために「これを何としてでも実現しよう」と、心の中心に念じ続け、主導権の核をつくることが大切です。
| (4) | 喚起の行 |
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苦・衰退の人は、問題や困難に心が執われ、心が重く沈んでしまう傾向があります。「喚起の行」とは、「どうしよう。もう駄目だ」という想いが湧いてきたときに、実際に自分の胸を拳でポンと叩いて、「ちょっと待ちなさい!」と念じて、その想いをとどめることです。「本当にもう駄目なの? あなたはいつもそうやって、もう駄目と落ち込んで、暗い心の洞窟に入っていった。それで今までこんなに苦しい想いをしたじゃない? もうそれは駄目! ちょっと待ちなさい!」と自らに語りかける。そして「私は自らの主導権を奪回する」と胸を叩き喚起してゆくのです。その後で、「私の中にある願いよ、出て来なさい」と問いかけ、「この願いを持って私は向かってゆこう」とさらに心を喚起してゆきます。恐怖心が嵐のように暴流しようとする流れに流されないで何度でも立ち向かうべきです。そうすれば、かつて考えたこともないような光り輝く人生が広がってゆくことでしょう。
| (5) | 貢献の行 |
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苦・衰退の人は、恐怖心や卑屈な気持ちから、身も心もうずくまってしまい、そのために周りの人が「どうしたの? 何か困ったことでもあったの」と声をかけてくださることがあります。そこで、今まで愛され、助けられてきたことから、今度は、その恩返しも含めて、自分の側から出かけてゆき、相手に貢献させていただく「貢献の行」が大切になります。小さなことでもいいのです。自分が関わる場、絆を結びたいと思う相手との関わりにおいて、「自分が貢献できることはないだろうか」と考え、行ってゆくことです。また、気持ちが引いてしまいそうになったら、「この方に対して、この場に対して、この状況に対して、今の私に何ができるだろうか」と問いかけて、それを率直に行ってみることです。「貢献の行」によって、今まで知らなかったご自分と出会うことになるでしょう。
| (1) | 率直に語る行 |
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快・衰退の人は、自分を守るために相手に合わせ、自分の本心に対して嘘をついてしまう傾きがあります。それゆえ、何より自分の感じている本当の気持ち、本心を大切にすることから始めなければなりません。そのためには、本心を言葉にして、相手に一生懸命に伝えるという「率直に語る行」が重要になってきます。「誰もあなたの存在を否定することも、あなたという存在の尊厳を冒すこともできない」という真実を深く味わうことが大切です。「あなたが正しいと思うことを、必要だと思うことを虚心に行うことが必要ではないでしょうか」(『新・祈りのみち』)という言葉を心に刻みながら出会いに臨むのもよいでしょう。「率直に語る行」は、一人ひとりの本心との響き合いを生み、場全体に対しても、未来への新しい希望を生むことにつながるのです。
| (2) | 回帰の行 |
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快・衰退の人は、自分を守るために相手と「契約」を結んでしまう癖があります。とにかくその場その場でうまく逃げおおせて、お互いの関係が事無きを得たら大丈夫という感覚があります。そして問題を感じてもそれを言えず、問題を放置してしまう。つまりその時そこで自分が得られるものと引き替えに、自分にとって一番大切にしなければならない本当の気持ち、本心を捨ててしまっている場合があるわけです。したがって、「回帰の行」によって、「今、自分は本当に何を大切にしなければならないか」ということを心深くに訊ねてゆくことが大切です。本当は何が呼びかけられていて、何が大切なことなのか、その自分の確信に基づいて始めてゆかなければ、一本化された本来的な魂の力は現れてきません。そのための「回帰の行」なのです。具体的には、『新・祈りのみち』(三宝出版)の「真我との交流のために」(p.396)を朗唱し、自分にとって何が一番大切なのかを深く心に問いかけてゆきます。
| (3) | 持続の行 |
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快・衰退の人は、目先の要請や刺激に流され、その場その場で相手に合わせてゆくうちに、自分は本当は何をしたかったのかがわからなくなってしまったり、すぐに「これでいい」と満足して持続しなかったりする傾向があります。そこで、本当に必要なことに関しては、一つ「これ」と自分で決めて、たとえ要請がなくても、そのことはずっと継続的に行ってゆくことが重要になります。例えば、毎朝、祈りの時を持つとか、縁のある方に、毎日、葉書を書いて自分の気持ちを伝えたり、他の人の悩みなどをお聞きするということを続ける。また、仕事で自分の担当しているテーマの進捗状況を逐次、上司に、あるいは関係者にお伝えし、わかりやすいように報告書を書くということでもよいのです。この行に取り組むことによって、人生が充実するだけでなく、今まで気づかなかった周囲の人々の痛みや悲しみ、喜びが感じられるようになってゆきます。
| (4) | 刻印の行 |
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快・衰退の人は、苦の現実が現れるとパニックになってしまい、快の方へ行く手段を無自覚のうちに選んでしまう傾向があります。そのことが様々な失敗や混乱を生み出しても、「あの人がやってくれなかった」と、自分の不足を心に刻印することが曖昧になりがちです。したがって、自らの未熟がどのような現実を生んだのかを、経緯を含めて自分の心に刻む「刻印の行」が必要です。自分にとっての「快」を退けるペナルティ(罰則)を課すのです。自分の失敗を刻印するために、自分が一番大切にしているものや好きなものをある期間止める。例えばコーヒーが好きな方ならコーヒーを1カ月なら1カ月断つわけです。また、失敗を刻印するノートをつくります。「私はこういう形で失敗をした」と、引き起こしてしまった事態とその時の自分の想いの流れを、日時や場所も含めて記す。さらに「自分はもう絶対にこうはしない」「次にはこうします」と願いも書くとよいでしょう。そして折に触れて、そのノートに目を通します。そのことによって、本当の後悔と魂の願いが明らかになってゆくでしょう。
| (5) | 収斂の行 |
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快・衰退の人は、ものごとに集中せず、何か他のことを考えながら作業をしたり、仕事も何となくやってしまったりする傾向があります。そこで、「収斂の行」として、まずは生活の様々な場面、例えば職場なら職場、家庭なら家庭において、「その時、その場の目的、いのちは一体何か」ということを自分の中で確かにすることです。そしてその目的に対して、自分の意識をあたかも鉄の棒のごとく集中させてゆきます。広がって分散していた意識エネルギーを、虫眼鏡で太陽光線を集めるごとく一つにしてゆくのです。そのときに、大変な力を発揮することができるわけです。具体的には、これまで2時間かかっていたことを1時間でできるかやってみる。また、何となく使っていた時間を「これから50分集中します」と、自分の意識と世界との間に隙間が感じられないほど密度高く集中し、その後10分休憩してみる。そのように、ライフスタイルにけじめをつけることも大切です。

月は、太陽の光を受けてひそやかに輝く存在です。自らを鏡のようにして、太陽の光を私たちに送ってくれます。自らを磨くのは他の素晴らしさを讃えるため――。それは、回向返照――。自ら修めた功徳(善行)を他のために巡らす営みそのものと言えます。「月の心」とは、隣人をひそやかに陰で支えることのできる陰徳の心の菩提心を表しています。

火は、一時としてとどまることなく変化し動きながら燃え続けるように見えて、「今」というただ一点をいのちとしています。「今」という一回生起の時を、これ以上はないというくらいの熱をもって完全に燃焼させています。「火の心」とは、本当に大切なものに一心にまごころを尽くす、熱き心の菩提心です。

空は、限りない広がりを抱いています。どこまでも妨げるものがなく、どこまでも高く、すべてを超えて広がりゆくものです。しかし、現実を生きる私たちは、心をどこかにとどめ、何かに固着させがちです。上下、左右、様々な区分けをつくり、その区分けに翻弄され、こだわります。「空の心」とは、何ごとにもとらわれず、無心に生きる自由な心の菩提心です。

私たちが生きるこの世界は、すべてがとどまることなく移り変わり、崩壊に至る定を免れることができません。その定を負いながら生きる私たちは、誰一人例外なく人生の中で様々な苦難や試練にさらされます。そのような世界にあって必要なのは、いかなる苦難や試練にも揺らぐことのない不動の心――「山の心」の菩提心です。

実りの季節に黄金色に輝く稲穂が、たわわな実りをつけて、頭を垂れる姿――。それは、自然の恵みが自らを育んでくれたことを知るかのように、恩恵を受けとめる姿勢そのものです。その恩恵に目覚めるとき、私たちは、人生に与えられる一つ一つの出会い、出来事は自らの快苦や損得を超えて、大きな意味がはらまれているものであると受けとめることができるようになります。「稲穂の心」とは、感謝の心の菩提心です。

泉は、澄み切った清らかな水をたゆみなく滔々とあふれさせています。その水は、いのちを潤し、乾きを癒します。傷ついた人々を癒し、励まし、力を与える智慧の象徴が泉です。「泉の心」とは、道なきところに道を切り開き、不可能を可能にすることができる智慧の心の菩提心です。

川は、一時としてとどまることなく流れ続け、一切のものを押し流し、様々な汚れを洗い流すものです。たゆみない川の流れは、私たちの心を洗い、想いを浄化させます。「川の心」とは、一切のとらわれやこだわりを洗い流すことのできる清らかな心の菩提心です。

大地は、豊かな恵みを産み出す母胎です。多様な生命をその懐に抱え、育み生かしています。そして、少しの搾取もなく、差別もなくあらゆる生命を育んで、恵みと富を繰り返し生産するものです。「大地の心」とは、あらゆる存在を育み、その可能性を開花させることができる、子を育てる親の心の菩提心です。

観音とは、この世界にあって苦しみ悩む人々の声(音)を自在に観ずる菩薩であり、慈悲心あふれる衆生救済の象徴です。他人の苦しみを我が苦しみとし、他人の歓びを我が歓びとする心――。「観音の心」とは、相手の苦しみを全身全霊で受けとめ、その痛みを取り除こうとする慈悲の心の菩提心です。

風は、遠くから何かを運んでくるものです。澱んだ大気の谷に一陣の風が吹き抜けるとき、清新な空気が流れ込んで気配がまったく変わってしまいます。停滞した事態、硬直した心に風が吹くとき、それを一変させる智慧と光が流れ入り、閉塞した空気が光転の循環を起こしてゆくのです。「風の心」とは、誰の心にも我意を超えた願いを蘇らせる、颯爽とした無垢な心の菩提心です。

海は、そこに注ぐ数え切れない河の流れを一つに結ぶ受容力の象徴です。谷や野を駆け巡ってきた無数の河は、様々なものを運んで海に押し流してゆきます。それらを受け入れて一つに結んでいるのが海です。「海の心」とは、あらゆる個性を包容して、全体を一つに結ぶ広き心の菩提心です。

太陽は、自らを与えるものの象徴です。太陽は生きとし生けるものを守り育てる熱や光を無償で平等に与え続けています。寒い冬にとって、暖かい太陽の熱は生きる力であり、暗い闇にとって、明るい太陽の光は希望にほかなりません。「太陽の心」とは、いかなる闇をも照らし、いかなる寒さをも和らげる愛の心の菩提心です。
完全燃焼する「火」をイメージし、その「火」になった自分自身を思い描いて、「火の心」に想いを馳せる。その心がからだ全体に広がってゆくことを念じる。
家族と過ごすとき、仕事に向かうとき、会議に出席するとき、人と出会うとき、一日を振り返るとき、明日の望み見るときなど、「今、私が大切にしたいことは何か。私が守らなければならないことは何か。何を一番優先すべきなのか。私の目的、私が本当に願っていることはどういうことか」と自分に問いかけ、大切にすべきことを見極める。
大切なことを一つ定め、それにエネルギーを集中する。猶予を残さず、すべての力を出し切ることに挑戦する。
限りない「空」を眺めて、自分がその下にある地上のごく一画に立っていることを想う。「空」をイメージし、その「空」になった自分を思い描いて、こだわりのない自由な心が身体全体に広がってゆくことを念じる。
例えば、許せない人がいるとき、自分と立場を入れ替えて考えてみる。また、自らの内側を振り返り、相手の失敗の中に自分の責任を見つめる。相手に対して、その事態に対して、「自分に今、何ができるだろうか」と考え、具体的に何かをしてさしあげる。
強いわだかまりや怒りや責めの感情が湧いたとき、「ちょっと待て」と自らを見つめ、その気持ちと対話して、決めつけたり、暴発させたりすることなく調御する。
とどまることなく流れてゆく「川」に心をイメージし、浄化と新生をもたらす「川の心」を思い描く。「川」になった自分を想像して、その「川の心」が身体全体に広がってゆくことを念じ続ける。
「今」に、常に新しい光が届いていることを思い、そこから開かれてゆく可能性を考える。掃除、洗濯、入浴など、日常生活においても、汚れやほこりを取り除いたり浄化する時をもち、清々しい気持ちで、新しい未来を思い描く。
自分だけでなく、相手も認める「正しさ」を求めてゆく。快苦、利害に基づく「正しさ」から、事実に基づく「正しさ」へ、さらに他を生かす「正しさ」へと、自分の「正しさ」を深化させてゆく。